911から10年

2001年9月11日から10年。10年ひと昔といいますが、この10年短かったような、長かったような、あっという間でした。

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(2001年8月1日撮影)

あの時New Yorkに留学、マンハッタンに滞在していた自分でしたが、2日後の9月13日に帰国予定。荷物もまとめ、あとはお世話になった人たちにサヨナラして旅立つだけとなっていた、いつもとかわらない日。その日から10年が経ちました。

いまだに気持ちの整理がついていない部分があります。それはWTCのツインタワーの光景。NYといえばWTC、というほど象徴的なアイコンであり、それがゆえに何度も狙われ、2001年9月11日に消滅してしまったのです。

その後USAには何度も出張で行っていますが、NYには未だ行っていません。あるはずの光景がない、あのぽっかりとあいた空、ツインタワーの代わりに灰色の煙があがる、あの光景で私のNYの姿は止まったままです。

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あまりの衝撃に色々な感受性のメーターが振り切ってしまって、気持ちの整理がつかないというか、感じなくなってしまっている部分も多々あります。ただひとつ大きな変化として言えるのは、(既存)メディア、情報に対してのスタンスです。

明日は911 ([の] のまのしわざ)

NY同時多発テロはブログと関係が深いです。メディアが一切入れなくなったNYの様子を克明に伝えた新しいメディアとしてブログが初めて注目されたのはこの事件からでした。当時私はNYに留学していて、帰国まであと2日というところでこの事件を目撃することになったのですが、私が見た現実とメディアの伝える内容の乖離に驚いたものです。特に日本TVメディアの報道は部分を切り出して強調することに終始しており、嫌悪感しか抱けませんでした。最も顕著なのがショッキングなシーンを繰り返し繰り返し、また繰り返しなんべんでもリピートして流す、heavy rotationの手法です。

事件は映画ではありません。映画以上の事件に人々がおどろいたのがこの911の特徴ですが、映画のようにショッキングなシーンだけをつなぎ合わせてショーに仕立ててしまうTVメディアは、報道ではないなと確信しました。これ以来TVメディアとは距離を置いて見ています。

911 (September 11th)の日常と非日常 ([の] のまのしわざ)

多分このときは本当に何が起きたか良く分かっていなかったのだと思う。分かっていたのはワールドトレードセンターが消え、煙に変わってしまったこと。そしてその煙の中に消えていった多くの命があるということ。そしてそれが事故ではなく、計画された故意の出来事であったこと。日本でいえば突如富士山が爆発して消滅してしまったくらいのビジュアル的なインパクトがあったこと。

すべてが余りに突然過ぎた気がする。しかし大きな混乱もなく、日常生活は淡々と営まれていった。

the day after 911 ([の] のまのしわざ)

911テロ事件:国や人種、宗教を越えたストーリー ([の] のまのしわざ)

あれから8年。あれ以来、2001年9月からカウントするようになってしまいました。私の人生のターニングポイントだったのは間違いありません。

森ビル「東京模型 1/1000」による都市化の可視化(その2):911編 ([の] のまのしわざ)

911の特徴的なことはその様子、1機目の衝突後から2機目の衝突、そして崩落まで全世界に生中継されたことです。この衝撃的な映像は繰り返し繰り返し流され、死を意識させました。

都市から排除されたはずの「死」が、この事件により突然突き付けられたという点で、この事件の特殊性があります。そしてその「死」の意識はメディアを通してのみ伝えられた、という点も特異的です。

確かに日本人も犠牲になり、この事件が現実のものだったのは事実です。しかしながらその規模の大きさよりも、与えられた「死のイメージ」は遙かに大きかったはずです。この大き過ぎる「死のイメージ」はメディアによって作られたもので、現実から乖離をはじめます。

現実から乖離をはじめたイメージは仮想化していきます。

この現実世界というのは、どこまでいっても人間の脳内で作られたイメージ、つまり脳内世界。

脳内世界は情報で構成されるので、五感と五感を通して得られる情報がすべて。その情報をもってくるのがメディアというわけです。

余りにもメディアによる情報が多くなってくると、メディア情報に依存しはじめます。その結果、肉体の五感を通して得られる情報が希薄化し、それにともなって肉体は衰退をはじめます。そして結果、肉体は不要になってもおかしくありません。

未来世界では肉体をもっているかどうかが問われなず、脳内の意識がすべて。意識はネットを介して伝達されれば、それはそれで成り立ってしまうのです。魂はどこに宿るのか、肉体なのか。それともネットの海なのか。ってどの話かと思ったら、攻殻機動隊ですね。

911でソーシャルメディアが生まれ、311で死んだ ([の] のまのしわざ)

続・311でソーシャルメディアは死んだ:tumblrに学ぶキュレーション時代の情報術 ([の] のまのしわざ)

この10年、大きく変化したのは人々の生活ではなく、人々の情報との付き合い方。スマートフォンの普及、流通はもちろん、メールやwebにはじまったネットの情報の海はソーシャルで加速、まさに津波的破壊度で我々を巻き込んでいったかのよう。

一方でこの情報の海のおかげで、NY時代の友人たちと mixiやfacebookでつながれ、いまだに keep in touchが実現できているのはソーシャルさまさまでもあります。

ただそれまで空からやってくる情報を鵜呑みにし、信じることに慣れきった人々にはまだネットを介した情報の海との付き合い方に不慣れのようです。

かくいう私も翻弄されて生きていて、まだ確たる道筋が見えているわけではありません。ただこれだけの情報のうねりがある中で必要になってくるのは、信念や理念といったもののような気がします。人間が人間らしく生きていくために。これからの10年、どうなっていくのか。まだ迷いつつつも、迷わずに。だってもう40代なんですからね。