監督も出演者もほとんど知らずに見に行ってしまったところ、いろいろと驚きました。結論からいうと私には合わなかった。
合わない理由を簡単にいうと、観客には2種類いて、
感情(移入、感動)を優先するタイプ vs 論理(つじつま)を優先するタイプ
で私は後者なのだが、このマイナスワンは完全に前者の作りになっていたから。また別の観点でいえば
くさい vs オタクっぽい
という言い方を岡田斗司夫がしていた。なお、シン・ゴジラは圧倒的に「オタクっぽい」作品で、その代わりに微に入り細に入り、設定されていてオタクも納得の出来栄えとなるが、一方で「ドラマ」という観点や「泣ける、感動する」という前者の要求には十分に応えられていない。
で絶賛の理由は感動した、これが見たかったゴジラだ、ハッピーエンドだなどの声が聞こえてくるが、オタクっぽいというかオタク気質の私としては細かいところが気になって、ドラマとか登場人物がぜんぶ上滑りしているような感覚である。リアリティがない。奥行がないというか、登場人物の気持ちもすべてセリフとして表現されているから、誰でもわかるし一意に解釈できるからズレがなくなるので、大衆受けするのは理解できるが、浅すぎてこれは中学受験の国語の試験問題にはなりえないほど、とも思う。
芝居のための作られたセリフなのだ。
結局のところ朝ドラの作りそのままなので、そもそも朝ドラが好きではないのでターゲットユーザーではないということなのだが。
・・・
(以下 ネタバレあり)
・・・
新作「ゴジラ」映画なのだが、ゴジラは添えもの。特攻から逃げてきた主人公が、最後ゴジラに特攻するという矛盾。もちろん感動ものなので実際には特攻せず、死んだはずの同居の彼女も生き返ってきたのでハッピーエンドなのだが・・・この主人公の心情と行動が矛盾だらけなのだ。
そもそも特攻から逃げた理由は、親から死ぬなといわれて生きて帰ることを選択したから。これ自体は当時は非国民と糾弾されてもおかしくなく、実際となりのおばさんからは罵られている。ただ生き恥をさらしてでも行きたかった理由があったが、東京空襲で両親を亡くし失われた。つまり生きる価値がなくなった。
生きる価値がでてきたのは、同居の彼女と血のつながってない連れ子のおかげ。しかしその彼女が死ぬと、それもなくなる。ここではじめて主人公には「死ぬ覚悟」ができた。だからこそ汚い手を使って、整備士を怒らせてでも呼び寄せている。まあ普通に考えて殺されても仕方ないようなことをしているにもかかわらずだが、この時点では彼にとって生死はどうでもいいのだ。
だからこそ、最後の最後に特攻をすべきなのだが、軟弱脚本はもう最初っから脱出前提で話を作っている。え、どうして?生きる意味も目的も失った主人公を生かしてどうするの? だって死ぬ覚悟で彼はこの無謀な作戦に参加しているのに。
もちろん脱出前提というのは後から実はね、という回想シーンで明かされるので観客は死を覚悟して特攻しにいった、と思ってみている。でも実際にはそうじゃない。主人公の行動と覚悟のギャップがでてしまい、感動をさせるために観客へ嘘をついている。実に不誠実だと思った。
実際に生還してみると電報が届いて、いや同居の彼女生きてたよ、よかったね、万々歳、感動した~
じゃねーよ。ずっこけたよ。
あのね、一度死んだ人間をよみがえらせちゃいけないよ。それはここ昨今の映画の特徴で、特に新海誠監督映画にありがちなんだけど、これは戦争映画なんだよね。戦争映画は生死がシビアなので、ドラゴンボールみたいなことしちゃいけないんだよ。だからリアリティがなくなる。
戦後のゼロからマイナスワンとうたっているだけに、2回敗戦したとしているから、ゴジラ戦は戦後の戦争なことは自明。なんだけど、これまた困るのが、GHQも政府も動けないので民間がボランティアで作戦しますよー、というところ。
いやちょっとまてーい。
作戦自体も素人まるだし、学術性もなくまったく場当たり的。だから当然失敗して結局は全部主人公の特攻だのみというのが最初から観客に丸わかり。最初から勝てる見込みがない作戦を、場の雰囲気とノリでうぇーい!って遂行しちゃう。
だから戦争に負けたんだよ。わかる、わかっている?
対ゴジラ戦は戦争なんだよ。この戦争にまけたらマイナスワン、2度めの敗戦になるんだよ。勝てる作戦考えようよ。
結局なんで物語がそうなるのか、そしてこの映画がどうしてこういう作りになっているのか。それはこれが商業映画として「感動」を売りにしているから。つまり感動させることを目的に逆算で作られている。
ラストで感動をさせるには、その前にはこうなってああなってと、ぜんぶ最後から作られているからだ。感動させるという意味では非常によくできている。
しかしこれは戦争映画でもある。戦争で人の生き死にというのは厳然とした現実、リアルであり、そこに付随するロジックは正確なものでなければリアリティが出せない。初代ゴジラは単なる娯楽、商業映画という側面とは別に、戦後時代に、そして原爆を投下されて被ばくした日本の現実、そして核兵器というパワーバランスによる抑止力は、新しい強大な兵器の登場の前では危うい存在であることを明確に指摘している。つまり物語でありながら、当時の世界情勢をきちんと反映した上で、問題提起をしているのだ。
シン・ゴジラはまさにそこに取り組んでおり、いまここで未曾有の怪獣が出現したら、日本国はどう立ち向かったらいいのか、を描いた。感情の抑揚がなく、淡々と進む会議はドラマチックではないリアリティがあり、作戦にリアルさを求めた。
本当にその意味でいえばまったく真逆の映画がマイナス・ワンとなる。
最悪だと思うのは、この映画も結局宇宙戦艦ヤマトであり、風の谷のナウシカなのだ。日本人が感動できるラストシーンを見せるためだけにできている。そのため表面上特攻を否定しつつも、見事に特攻を暗に肯定化してしまっているのが最大の問題なのだ。
「戦争は数だよ兄貴ィ」
とはガンダムのドズルの名セリフである。日本はなぜアメリカに敗戦したのか。数だよ、物量だよ。工業国としての生産力の違いに加えて、その品質も段違いに及ばなかった、当時は。これをきちんと認めなきゃいけない。
一番いけないのは「一撃必殺」「少数精鋭」という言葉であり、これは特攻につながる最悪のロジックである。散りゆく命は美しい、と日本人は知っている。だから感動を呼ぶ。高校野球で熱い中連投し身体を壊していくのを、悠然と見てられるのもこのロジックだからだ。一人のエースが連投していいわけがない。いつ壊れるか、いつ壊れるか、それを期待してまっている。末恐ろしい。
そんなドズルも最後はビグ・ザムを自ら率いて特攻である。これは司令官としては「戦いは数だよ」と知りつつも、一人の武将、武士として一矢報いて散るための行動である。いってしまえば無駄死にである。ガンダムの場合、ビグ・ザムを破壊され、それでもなおかつマシンガンをもってガンダムに立ち向かうドズルに対し、アムロが畏怖する姿が描かれている。
これが大切なのだ。いかに特攻は無駄か、意味がないのか。これを本当に知らしめなければならないのに、そのガンダムから40年以上がたってもこれかよ、という徒労感。
日本人がいう「戦争反対」とか「戦争はしてはならない」というのは、根本的にはこの太平洋戦争での敗戦と、その後のGHQによる占領がトラウマになっている。それまでは戦争とはしていいものであったからだ。太平洋戦争は軍部の暴走、とかいっているが、実際には世論が後押し、いやむしろ牽引して戦争をさせたといっても過言ではない。戦争をはじめたのは国民の意思なのだ。
軍人は現実主義者なので、戦争をはじめて勝てるかどうかは分かっている。勝てないのに戦争する軍人はいない。軍人は自分の命以上に部下の命を大切に思っているからだ。わが子同様に育てた部下が無駄死にするのなんて、普通の軍人には耐えられない。
日本人に限らずであるが、戦争とは敗戦処理が大切だ。つまり引き際である。損切でもいい。
勝ってやめられるのが最高であるが、勝てていない状態であっても適切なときにやめられないと結局は敗戦へと向かう。ウクライナ戦争しかり、ベトナム戦争しかり。
日本人が開戦を後押ししたのは、それまでの戦争に日本はすべて勝っている、つまり戦争をすれば勝つと、意味もなく信じていたのだ。むしろ負けることがある、負けた場合はどうなるか想像したこともない、というのが実際のところ。そして戦争とは国外で行われるものであり、まさか自分の身に不利益がふりかかる、ましてや肉親、親兄弟が失われるなんて思ってもいなかった。
だから戦争をもしはじめるなら、勝つために万全の準備をした上でなければはじめてはならない。逆に攻め込まれたのなら、もう防戦するしかないが、ここでもどう退くかが大事である。本土決戦とか、玉砕とか言っている場合じゃない。
沖縄戦がダメだったのは、もうその時点で敗戦なのに敗戦処理に向かわなかったこと。戦艦大和を向かわせてどうなるもんでもない、というのは軍人全員が分かっていたことだ。そもそも大和級は航空機時代には時代遅れになった大型戦艦であり、それが故に信濃は戦艦から空母に計画転換しているわけである。わかってないわけがない。
だから航空機がうようよいる沖縄に向かっていくのは犬死にするのが分かっているわけで、もしかしたらなんかいいことあるかも?なんていきあたりばったりなのは作戦とは言わない。完全にこれは天皇のお気持ち采配だけで、だから
戦争に負けたんだよ。
そしてマイナス・ワンが絶賛されるのをみて、次戦争することがあったら、やはり勝てないとも思う。精鋭でもない民間人が少数で、浅い洞察だけで作ったデタラメ作戦と死ぬ覚悟のない特攻でゴジラをなんとかできるわけないでしょ。
でもなあ、これがうける。日本人にひびく。シン・ゴジラよりも。その事実がまたショックなのだ。
また戦争にまけるぞ、というのが今回最大の感想。
p.s.
震電とかももう出したかっただけでしょ、蓋然性がなくて全然ダメなんだが、まあそこは上記の前には本当に枝葉末節。
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1995年からだいたい2000年まで、VRMLという技術をつかいVRChatサービスを企画開発運営していました。いまVRブームと言われていますが、90年代が第一波だとするとセカンドライフが第二波、今回が第三波という感じでしょうか。今回はホンモノだ、定着する、とかなり鼻息荒い人が多いようですが、昔VRをやっていたロートルとしてはかなり冷静です。燃えないというか、なんというか。その理由はたくさんあるし、口をひらくとすぐに老害呼ばわりされるので、逆に今自分がVRやVRChatを企画するとしたらどうするか、考えてみたいと思います。
]]> VRゴーグルは悪手VRの普及を妨げているのはVRゴーグルです。みんなそれは分かっているのでコストダウンや高性能化など計っているようですが、いやそうではなくVRゴーグルを使わないとVRできないことに問題があるのです。だからVRゴーグルが不要な世界を作るべきです。特にVRゴーグルは3D酔いしやすく、一度酔ってしまった人はトラウマになりなかなかやりたがりません。
VRゴーグルを使わないならディスプレイとキーボードの普通のPC環境になっちゃうので陳腐だ、そんなのVRではないという意見もあるでしょう。現実世界との連続性が強すぎるためですね。
そこで思い出したいのはVRの先駆けであるOUTRUNです。OUTRUNは体感ゲームといい、筐体が左右に動くことでGを感じることができました。つまり別にゴーグルにする必要はなく、身体全体をおおってしまえば十分没入できます。そしてそのヒントはガンダムにあります。
ファースト・ガンダム時代のモビルスーツはコックピットに前面とサイドモニターを装備していました。これが6年後のZガンダム時代になると全天球コックピットで全周モニターとなり死角がなくなります。そしてこれを模したのが「戦場の絆」のような閉鎖型筐体というわけです。これは十分VRとよぶに相応しいですよね。
これを部屋におけばいいんですが、置ける場所なんてありません。じゃあどうすればいいか。なんてことありません、最近の家屋には必ず1つ以上存在するあの小部屋を改造すればいいのです。それは洋式トイレ。
ソースが見つけられませんでしたが、昔引きこもりの理想の部屋かトイレ、というテーマでトイレに必要な機能を追加していった結果、冷暖房、モニター、PC、ゲーム機などありとあらゆる装備がされた理想のトイレが出来上がっていました。最後は車輪がついて走っていたかな? ガンダムシリーズでも「Gのレコンギスタ」でコックピットのイスの下が水洗トイレになっており、やはりコックピットとトイレは相性がいいというか、長時間滞在して外にでないという環境の共通性が見出せます。VRも一度没入したらそうそう「落ちる」ことはしないしマナー違反を問われるので、妥当な選択でしょう。
昨今に限らず、私が好きではないのはアバターのゆらぎです。アバターが本人の「化身」ということで個性を出すため自由な表現手法になっていますが、そのベースが人間であり、性別があり、ファッションの自由度があればあるほど統一性がなくなりせっかくの世界観を台無しにしていると感じてます。いわばジャンプのキャラ全員集合みたいなもので、北斗の拳とDr.スランプあられちゃんが同じ世界にいても、困るわけです。
また性別が問題です。VRは現実に不都合を持ち込む必要はありません。現実世界でもっとも不都合な真実は性別と年齢、さらにいえば人種と言語です。言語に付随して歴史と文化、宗教などがくっついてきますが、これはまだ先の話。
だからアバターで男女を用意してとかやると、あとはセカンドライフの時代に流行ったVR風俗に走るしかありません。何が面白いのか分かりませんが、一部では結構流行っていたようです。
VRゲーム、コックピット型筐体で考えるとアバターはクルマやモビルスーツが実は適しています。そうすると現実世界から仮想現実へ入るのにドアをくぐるという儀式をすることで、隔絶することができます。ナムコワンダーエッグにあったギャラクシアン3もこういう儀式をすることで宇宙空間に飛び込む感覚を味わうことができました。
同様にトイレを魔改造したコックピットに乗り込み、そこからワープしてVRの世界に飛び込んでゆく演出によりアバターに「乗り込む」こととすればいいわけです。ここで問題になるのはアバターは通常は人間サイズの人間だったのですが、コックピット化することでモビルスーツ化する必要がでます。そうすると自然とアバターもモビルスーツサイズ、小さくてもボトムズ(アーマードトルーパー、AT)サイズになるので実世界をモデリングしたVRだと狭く感じてしまいます。ただこれは1/1スケールでの話なので、設定でミクロの決死圏のようにスケールダウンしたという設定にすれば同じサイズ、もしくはもっと小さくしてそれこそ人体の中に入っていってしまうなんてミクロの決死圏VRを体験することができます。ちょっとやってみたくなってきた。
ということで、今日はざっくりここまで。気が向いたら続きを書きます。
更新が滞った理由は多忙にもありますが、やはりアウトプット先が手軽なFacebook、そして動画のyoutubeになってしまったことが大きいです。特に一般に届けるという意味ではyoutubeの存在が大きく、view数もすっかりブログのviewと変わらないかそれ以上のポテンシャルを持っているうえ、マネタイズもむしろきちんとしているということも大きいです。
一方で動画閲覧数が世界的に広がるものの、コンテンツの消費も激しいのではないかということや、noteというブログプラットフォーム運営会社がIPOしたりと、そろそろまたテキスト回帰もあるのではないかと思う今日この頃。twitterはイーロン・マスクの買収によりドラスティックに変化して、ミニブログから文字数制限がなくなりよりブログプラットフォームに変わるかもしれません。
自分のメディアを持つという点ではブログの価値は今も昔も変わらず価値あるもので、それはトラフィックのトレンドがうつろいだとしても不変です。今年はもっとアウトプットしていきたいと思いますので、改めて皆様どうぞよろしくお願いします。
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昨年息子はニュージーランドへ留学、11月末に帰ってきました。12月初頭から早速自動車学校に通い始めたのですが、コロナ禍で教習所は大賑わい、予約をとるのが大変だったため実技が終わったのが3月末のことでした。
普通に考えるとその間に学科を進めればよいのですが、実技の第二段階に入らないととれない学科があることや、自由奔放な高校生活に、海外生活のために日本型教育に馴染めず、「学科めんどくせー」ということになりなんと学科が終わったのが6月。そして卒検をうけてようやく7月に免許がとれたという状態。もともとバイクシーズン、ゴールデンウィークに間に合うかと思っていたのが大幅にずれましたが、それでも夏休みに間に合ってよかったですね。
免許をとったら早速一人でツーリング、なんてことにはなりません。過保護かもしれませんが、親同伴ツーリングからスタート。自制心があり慎重な家庭の子ならソロでもいいでしょう。というか多くの人はそうだと思います。しかしここは野間家の血筋。無茶、無理、無謀がDNAに刻まれている以上、一般家庭と同じにはできません。
そもそもうちはながらく公道二輪禁止にしていたほど、二輪に厳しいのです。
四輪の免許は仮免、路上練習があってから本免許へと進むわけですから、今は仮免状態と考えれば自然。インカムをつけて交通状況や路面状態、危険、ヒヤリハットなど解説しながらの親子ツーリング。
数回三浦半島や宮ケ瀬へいったあとはいきなりキャンプツーリング、いきなりダートへ。
しかもガレていることで有名な大弛峠へ。いきなり?
ところがさすがはニュージーランド帰りの男。向こうでは体育の授業でMTBがあり、ダウンヒルをガンガンに攻めていくんだとか。女子が。
授業でMTBのタイヤパンクの修理もあるし、学校の周りにMTBコースもあるらしいし、とにかくアウトドアスポーツが盛んなお国柄。そのMTBのおかげで全然ダウンヒルを臆することもなくスイスイと降りていく息子。ここを3度目で自分史上もっともスムースに降りているつもりの私を追い越していき、はては差が大きくなりすぎるので待ってもらう始末。
たまにヘアピンコーナーで曲がり切れなかったり、コーナー途中でタイヤがすべったりしてますがとりあえず無事、技量と危機回避能力は高そう。
黒坂オートキャンプ場は10年前くらいから時々キャンプにお邪魔している友人が週末いるというので、転がり込んだところ、スペースが余っているというので広いサイトを借りることができました。さらに友人が食事を何から何まで用意していただき食べるだけという、まさに食べ放題状態でお世話になりました。ありがとうございました!
一度来てみたかった高原のキャンプ場。眺めは最高、高度も高く涼しく、、、ってむしろ寒い寒いよ!
風は強くて冷え込むし、アブには刺されるしで長袖長ズボン靴下はもちろん、さらに強力蚊取り線香に虫よけスプレーは必須です。
短パンサンダルの息子は相当さされていました。まあ私も唯一でていた足首がやられました。皆様ご注意を。
夕食は近くのスーパーでかったカレーと野菜。装備が足りなかった。
大弛峠いけたんだから、もういけるでしょう、御荷鉾スーパー林道。
ってことで最終日も林道三昧。
いやそこ無理でしょ、ってガレ場もこなしてクリア。ガッツあるし、なによりチートなのは足つき性。なにかあってもまるでストライダーのように足でこげばだいたいクリアできる身長183cm。
なぜ野間家が二輪に厳しいのか。それは2つあり、私の弟が自転車で跳ねられて意識不明の重体になったり、私がAX-1を買って4カ月後には大腿骨骨折の重傷を負ったりしたため。私もその事故から25年間二輪を封印、もう二度とオートバイに乗ることはないと思っていたものの、息子の自転車解禁がきっかけで、それなら自分もいいだろうとなってリターンしたという経緯。
それでももう二度と事故るわけにいかないので、より一層厳しいクライテリアでのぞんでいます。まずは安全装備必着。
どんなに暑くてもTシャツ一枚で乗る、なんてことはしません。どんなに距離が短くても、低速であってもフルプロテクターです。これは息子も一緒。
そんなわけで一度は諦めたバイクライフ、復活して、しかもAX-1を昨年購入。スペアマシンとして2台めを買っていたのですが、そのマシンがなんと結果的に親子お揃いでAX-1になるという偶然。
計画してなかったし、予想もしていなかっただけに今のこの現状にある意味一番驚いている自分がいます。
AX-1は実際問題ダートにいくには限界が低いし、車高は低すぎてライディングポジションも183cmの息子にとっては窮屈ですが、軽い車体とどんなときでもがっつり足がつけるストライダー状態で、ダートを安全に慣れることができそう。
それと2台同じマシンだとレバーやプラグなどのスペアパーツが1セットで済むのもラク。ドライバビリティも同じだし、航続距離も一緒だからガソリン給油ポイントも一緒。ツーリングにいくには意外とこれはいいということに気付きました。
親子で思い出のマシンを乗るというのもなかなか貴重な体験で、本当に感慨深いです。とにかく事故なく、バイクライフを楽しんでいきたいですね。
]]> 動画 ]]>原因は特定し、コンプレッサー配管のOリングの劣化。部品も調達済だったので1年越しで修理です。
ボルトを外して引き抜いてみるとOリングの手前側にも漏れ止め剤が回り込んで、ガスが抜けているのがよくわかります。手前側だけ抜けているようでしたが今回は高圧側、低圧側両方のOリングを同時に交換します。
手前のパイプを抜いたあとゴミなど入らないように養生。実際問題奥側のボルトを外したときに落としてしまい、養生テープがなかったら穴に入れてしまったところでした。
Oリングをみてみると全体的に痩せている印象。前回のエアコン故障(コンプレッサー割れ)から10年近くたっているため仕方ありません。
Oリングを交換してパイプを取り付けてボルトを締めてとりあえず作業は完了。
エアコンガスの注入量は550~600g、650g±50gとのことなので、前回同様 200gx3缶+25g(添加剤)としました。
前回(昨年)は入れた直後はよかったのですが1週間程度で抜けてしまいましたけどね。
1)真空引き
まず高圧、低圧側ともに真空ポンプにつないで、真空引き。これで一晩をおいたら低圧側が若干戻っていたので、再度真空引きしてからガス充填へ。
2)エンジンをかけず、低圧側にガス補充
真空ポンプを外してそのかわりにエアコンガスをとりつけて、プシュッとエア抜きしてから低圧側バルブをあけて吸い込ませます。真空になっているため自然にガスを吸い込むという手順です。
3)次は添加剤、エンジンかけてエアコンかけて
つぎに添加剤につなぎかえて同じ手順で接続。低圧バルブをあけて吸い込ませますが平衡状態なのであまり入っていきません。そのためエンジンをかけコンプレッサーを動作させて吸い込ませます。このときエアコンは風量全開、内気循環にします。
この状態でエアコンダクト内の温度は32℃から26℃まで低下。
4)2缶目のエアコンガス
ガスが補充されるとだんだんと高圧側のゲージが上がっていきます。
それと共に一気に温度も下がり、17℃へ。
5)3缶目のエアコンガス
すでに十分冷えてますが、規定量まで入れます。
温度は16℃になりましたが、あまり差がありません。エンジンの熱が回ってきてその後だんだんと温度は上がっていきました。
これをみると100g程度ガスが抜けてもあまり性能には変わりないのかもしれません。冷えなくなったときは200gほど入れると歴然と変化しそう。
1MPa = 145psi
高圧 200PSI = 1.37MPa
低圧 47PSI = 0.32MPa
程度となりました。
参考)エアコンメンテ塾 マニホールドゲージの使い方|車検や修理の情報満載グーネットピット
3日後エアコン作動したところ、ダクト内9.3℃まで下がったので効いているようです。
ついでなので加水分解でベトベト、はがれててかてかになったつまみを新品交換。
型番違いがあったので両方取り寄せてみましたが、ものは同じでした。
交換してスッキリ。
走行距離 66366km]]>
BKR7EIX-11PS
2005年 イリジウムプラグ IRIWAYへ交換 - のまのしわざ
2014年 S2000のプラグの焼け具合 - のまのしわざ
S2000メンテナンス記録:プラグ交換その後 - のまのしわざ
昔はサーキット走ってましたが、最近は街乗りだけで高回転ほとんど常用しないし、ってことで7番にしましたがIRIWAY8の焼け具合みると8番でよかったかもしれません。
とりあえず値段も安いので交換。
漏れているのかと思ったら揮発するんだとか。 0.5L-0.8L程度補充。
こちらは揮発じゃなくて燃えているんでしょうね。0.8L 5W-40 補充。
走行距離: 66046km]]>
八ヶ岳・清里サイクリング、電動アシスト付自転車が最高 - のまのしわざ
今回家族で八ヶ岳にきたので、サイクリング。もちろん電動アシスト付きです。
行くところも基本は一緒、巡回ルートが今回は吐龍の滝から。
ここからずっと坂道をあがってまきば公園へ。
前回はこのそばで大転倒、両手を怪我して大変な目にあったことを思い出します。
今回は逆ルートで同じ場所を通ったのですが、なんとまったく同じ場所で突然
パン、シューーーーー!
とパンク。えっ?
度重なる不運に驚くというか、偶然にしても出来すぎです。
仕方なくそのあと押して歩いたのですが、あるけどあるけど清泉寮にはつかず。さすがに諦めて自転車を借りた観光協会に連絡するとすぐにスペアカーをもってくるとのこと。手厚いサポートに感謝です。
遅い昼食、コロッケバーガーをいただきます。
偶然は続きます。
温泉入ったあとに使ったタオルをみると、あれ、この写真のではないかい?
この時包帯替わりにタオルを購入、今回の旅行では富士山が見えるからという理由でたまたま持ってきたとのことで、まるで小道具を用意したかのよう。ということであえてのポーズ。
ラーメンも小道具。
今回は怪我もなく、楽しく過ごせてよかったです。
アフガンのカレーも随分食べてないので、次回はカレーか八ヶ岳倶楽部に行きたいですね。
6街道全て日本橋起点、明治天皇行幸に倣い本日はここ日本橋からスタート。
しかしそのままは進まない、なぜならこの日本橋とその上流にある常磐橋は石橋、眼鏡橋として最新にして最高の作品であるからだ。
特に常磐橋は現在リノベしており綺麗になっていて今年には整備された公園とオープン予定。
トキワは皿を使うと割れる、ということで縁起をかついで石の常磐を使うはずなのだが、貴子じゃないのに常盤の文字が。
そしてこの界隈、魚河岸になっており沢山の船が集まっていたという。
有名な富嶽三十六景の神奈川沖浪裏は伊豆で取れた鮮魚を帆と人力のハイブリッド走で一晩でこの魚河岸に届けたという。特に初モノ、一番鰹を喰らうことをイキというが、粋と活をかけていて、江戸っ子のこういう気概のことをいうようになった。
高く売れることや鮮度が命なので、まさに命懸け、高潮押し寄せる海況であっても船をだしており、それをわざわざ船チャーターして描きに行った葛飾北斎もイキである。
この魚河岸は明治になり、現在の築地に移転、長らく列車、その後はトラックと物流は変化。現在は豊洲でこの日本橋川に架橋された首都高速を通じてやってくる。水運からトラックへ。
変化する物流、この後変化しないとでも?
なんてこと考えながら散歩するの楽しい。
はっここはどこだ!?
見慣れない街並み、しかし日本語が聴こえてくる。私に起きたことを詮索するよりもまずは江戸城の主、慶喜様の元へ駆けつけねば。昨今は桜田門外で大老が斬られるなど、江戸といえども治安が悪く、こうしている間にも尊王攘夷派の輩がお命狙いに押し寄せているやもしれん。
記憶と手に持った地図を頼りになんとか江戸城にたどり着くもそこにあった碑は
江戸城跡
跡だとぉ?
立派な櫓門は消え去り、陸蒸気の駅に一直線に伸びる行幸通りは雅な石垣を切り崩し、二の丸にあった我々の住居は薙ぎ払われ砂利の空き地になっている。なんということだ...
慶喜様はすでに大政奉還をし、無血開城したと聞くに、流石は日本の将来を考えた慶喜様である。お仕えした甲斐があったというもの。
なーんて幕末藩士がタイムトラベラーになったらという設定で散歩すると、メガネ無しでAR映像が瞼に浮かび上がってくるので楽しい。
見たら即買って携行食にもって小腹減ったら歩きながら食べる。なるほど、当時もそうしてたに違いない。
夕飯は通ってた半蔵門の欧風カレーのテイクアウト。相変わらず美味しい、最高。
店はずいぶん入れ替わったが、市ヶ谷のテキサスは現在。
旧甲州古道、笹子峠を越えた先はV字の渓谷となっており大雨でいとも簡単に土石流が発生することが伝わってくる。谷は削られ、コンクリはもちろん、古くは江戸時代の石積みも散見されるがものの見事に押し流されている。そこに平成の大きなコンクリダムが作られる。しかしそれも数十年で満杯になるか、破壊されるのだろう、それほどに日本の山々は生きているのだ。
そこで思い出したのがヤマタノオロチ伝説。出雲の近く、船通山に伝わるこの伝説は実際には8つに分かれる暴れ川のことで河川の氾濫下流域の水田地帯に大きな被害を与えていた。嫁にめとるというクシナダヒメ(奇稲田姫)はまさに水田を表す名前である。
なので酒で酔わせというのは、酒=ごちそう、資本を使って人々を雇い垣根(堤)、門(水門)、桟敷(一段高くした土地)を作ったという事でまさしく治水工事を行ったというのが妥当。
そしてヤマタノオロチの腹は常に赤い血を流しているというが、これはこの地方の山腹ではたたら製鉄を行っており昼夜を問わず炭と砂鉄を燃やしていたので夜空を赤く染め、川に流れる砂鉄は赤さびとなってどす黒い血となり下流域に流れ込み、公害を引き起こしたことを指す。実際に船通山周辺ではたたら製鉄による公害訴訟が江戸時代にも起きている。
なのでヤマタノオロチから出てきたという草薙の剣は、この地方の純度の高いたたら製鉄による剣ということがわかる。
ということを考えながら歩いていたら、出雲いきたくなった。サンライズ瀬戸は乗ったことあるけど出雲はまだ。だいたい3月末になるとサンライズ乗りたくなるのは偶然の一致か?
#旧甲州街道散歩
#サンライズ出雲
#日本神話
交通量もめっきり減り、国道沿いの道といえどそんなに緊張感はない。
古道への脇道はちょこちょこありそれを探すのは面白いが、中央本線に分断された箇所が3箇所ありここはなかなか手強い。
特に川を挟んだところは岩ゴロゴロ、せせらぎを越えてゆかねばならないが一里塚があったので古道のルート的には正しい。
そこであった第一村人の手に持ってるのは猟銃ではないですか。結局この区間、通行人は総勢4名しか会わなかった。
寒かったけどなかなか風情があって良かった。
次回は遂に笹子峠越え。難所なので1日かけてじっくり行かねば。
国道化により廃れた街道筋、残るのはなぜか甘味。まんじゅうに餅屋は何故か営業してる。
笹一酒造はモダンに改装され大型バスを飲み込む一大お土産物屋に進化。
センスだけでなく水もイイ、流石は献上品。
ツーリングでよりたいスポット。
ここだけ狭窄していて交通の要衝であり、戦略上の要害でもあった。今の橋は150年前のもの。国定忠治が囲まれたが飛び込んで難を逃れたというけど、さすが過ぎる。
ご行幸は毎日記録、公開されているのでいつどこに行ったか、休んだか丸わかり。
これを見る限り初日は皇居から八王子迄40km、次の日は小仏峠越えて上野原まで30kmを1日で移動。
天皇はもちろん馬に乗ってるのでなんてことないが、陸軍が同行していて当然メインは歩兵になるためそう考えると装備付きで8時間、休憩込みで12時間くらい行軍。
(追記:全員馬で移動しているらしい)
季節は六月なので日は長いが天気はどうだったろう、梅雨入りしてるとかなり厳しそう。後で気象庁の記録調べよう。
途中野点したり、なかなか大変だ。
取り敢えずこれでどこで休んだか分かったので今後は更にチェックして行こう。
四谷は出身大学、そして結婚式を挙げた教会はあるし、麹町は職場も近かったしで馴染みがある通りだけど変化が激しい。
思い出せば35年前だもんねえ、大学入学。昭和は遠くになりにけり。
街道筋はほぼ全滅、拡幅と首都高に江戸情緒は失われようやく見つけた一里塚は看板のみ。
しかし玉川上水の暗渠を発見、気分は盛り上がる。
途中ラジコンに良さげなオーバルコースも発見、おそらく昭和のローラースケート場だろうか。当時流行ってちょこちょこ出来たけど一気に見なくなりましたね。
]]>目的は陸軍の軍事訓練も兼ねて、全国に現人神の威光を轟かせるためらしいが、それまでの天皇が旅行をしなかったのに対して対照的でそれが国民の支持に結果的に繋がったのだろう。
同様に巡幸で知られるのが昭和天皇。
戦後占領下の日本において全国を回ったというが特にこだわったのが北海道。
時に朝鮮戦争勃発、共産圏との代理戦争であり元領土であった隣国が戦火に包まれたことを考えるといつ北海道がソ連に攻め込まれるか判ったものではない。
そんな道民感情を考え、絶対に見捨てないとの決意表明が北海道巡幸らしいが問題は交通手段。
青函連絡船しかない状況、津軽海峡にソ連の潜水艦は潜んでいるしそもそも機雷がまだ漂っている。さらに国内の左翼活動も活発。それでもなんとか行きたいという昭和天皇の意思は堅い。
コロナひと段落したら令和天皇も巡幸してくれないかな。
古道は尾根沿いを行くため眺めもよく、犬目宿では特に眺望が良い立地。それまで絡みつくようにしていた中央本線はトンネルと河川沿いの谷あいを行くため離れたが、中央道は切り通しが中心で、古道の破壊がひどい。
それでも一部はまさに当時そのままの山道が歩け、意識は一気に200年前。
さらに北条氏との激しい領土争いがあったために古戦場も多く、それに至っては500年前である。
歩きやすいのにこれだけの内容、今日は収穫が多かった。
上野原市は古道への案内看板がこれでもかとあって分かりやすかったが、大月市になった途端に皆無。こういうところで地域の歴史文化への理解度が露呈してしまう。大月市にはもう少し頑張って欲しいところ。
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