仕事はつらく苦しいものでなければならない

中二の子からなんとなくこういわれたのだ。

「お父さん、いつも遊んでばっかりいるけど、将来とか大丈夫? 今も心配だけど」

そもそも論として私の仕事っぷりはほとんど表に出ていない。面白可笑しい、楽しい、遊んでばっかりのことがこうやってソーシャル上に流れている。このブログもそうだが、Facebookも同じである。そのため子どもはおろか、知り合いにも似たようなことを言われる。

「野間さん、遊んで稼げていいですね!」⇒(遊びでは稼げてません)

「野間さん、本当は何の仕事をしているんですか?」⇒(説明する)⇒「・・・よく分かりません」

「野間さん、本当は何の仕事をしているんですか?」⇒(理解してもらえないので最初っから説明しない)⇒「(遊んで暮らしていて羨ましい!)」

この質問の根底にあるのは、仕事というのは9時5時で通勤して会社にこもり、残業したり、休日出勤したりして毎日疲れたよ、眠いよ、酒飲んでないとやってられねー、という前提があるからではないだろうか。

少なくともうちの子は産まれてからこのかたそんな父親の姿は見ていない。本当はそんな時期もあったのだが、覚えてないはずだ。

なので、「テキサスいってきたよー」「グアムいこうぜー」「サンフランシスコいってきた」「アムステルダム、ロッテルダム、パリいってきたよ」「北海道」「シンガポール」とか言っているとまあそりゃ何やってるんだこのオヤジは、という気持ちにもなるというものだ。つまり、いよいよ職業とか仕事とか、将来について考え始めたということですな。

そもそろも「仕事」って仕える事と書いて仕事なので、誰かに仕えるわけですよ。でも職業はそれとは違っていて、例えば職人って誰かに仕えるわけではなく、プロフェッショナルやエクスパティーズを活かして何かを成し遂げる、作り上げるわけです。で、それには9時5時とか残業とか休出という概念は本来ないんです。だってだれかに仕えるわけではないから。

今の仕事は明治以降近代化のために工場労働者を量産した結果、会社員という仕事が生まれたわけで、労働法とかもそれを基準にしているわけです。でももうこれは古い。

新しい仕事の仕方があって、それはもうそんな旧来のやり方をupdateしただけじゃダメなんです。つまり「働き方改革」とかいっているものはぜーんぶ、ダメ。通勤を楽にしようとかいっているけどそもそも通勤自体が無駄。

ではどうすべきかというと、本来に立ち返りましょうという話。

自分の人生ですからね、楽しく、好きに生きればいいはず。生きていくためには辛く苦しいことを耐えて頑張らなきゃいけない、という風潮ですがそれが間違っている。だって、例えば映画監督とか、ミュージシャンとか、ゲームプログラマーとか、アニメーターとか、漫画家とかなんでなったの? 辛く苦しいのはあるかもしれないけど、そもそろ論として「好きだからやろうとした」わけですよね、最初。

進学にしても大学の学科を選ぶにしても、その学科に入った理由は勉強したいから、好きだからじゃないですかね。

就職活動もやりたい仕事や好きな企業を選んでいるんじゃないですかね。

いやまあ全部が全部ではないですけど、苦行とか修行じゃないんだから、辛く苦しく、意味が分からないけどとりあえずやって、その中から意味を見出すとか、そういうのは僧侶だけでいいんじゃないかと。

今の日本の問題の根源は明治にあると睨んでいる昨今ですが、今回は「職業選択の自由」と士農工商の廃止に注目したい。

最近の研究では士農工商は身分制度ではなく、職能制度だったと言われている。世襲で職業が決まっており職業選択の自由はない。これは一見不自由に見え、個人の意思が反映されないのでよろしくないように思えるが、その代りに必ず就職ができる、食い扶持を確保でき生活できる社会システムであった。

どんなボンクラでも世襲で家業をつぐのでたまに失敗して家をつぶすこともあるわけだが、とにかくサステナブル社会においてこれは機能していた。人口増加もほぼなく、経済も伸長しないのでグルグル回るだけ。

明治政府となって何が問題かというと諸外国に経済的格差、武力格差を見せつけられ、列強による植民地支配がにじりよってきているときに、サステナブルとかそんな悠長なことを言っていられない。士農工商の廃止は何に迫られてかというと、武士以外を兵隊にしたかったからだ。武士はすでに旧式の連中で近代化された兵隊とは違う。そのため職業選択の自由を与えることで、ジョブチェンジを促進、富国強兵を実現した。

今はその職業選択の自由による弊害が明らかだ。

世襲とか家業をいうものをもたない会社員の子どもが多くなったが故、就職をしなければならないのだ。これは経済が伸長し、人口が釣り鐘状の場合にはよく機能する。なぜなら会社の中のヒエラルキー、階層構造は上が抜けることで下から上がっていくようになるからだ。ここに実は能力差はあまり必要ない、いわゆる年功序列による昇進である。

ところが上が多すぎると抜けず、ポストが不足して不要な実力主義に陥る。ようするに「アレオレ詐欺」である。あれはオレがやった、おれのおかげだ、おれの手柄だと必要以上に実力を誇示して昇進するものである。これにより昇進した本人は幸せだが、その回り、そして部下たちは不幸である。なにせ実力はないのに、口達者だけに当然結果は伴わない。責任転嫁を行い本人はのうのうとしている、という図式である。

そして経営危機におちいり、新卒採用の縮小、就職難となってしまう。

就職難になるから、自分のやりたいことや面白そうなことよりも、稼げるところ、入れるところを選んでしまう。それだって入れるか分からない。でもって不本意なブラック企業に入って、低賃金で長時間拘束されるという地獄に陥ってしまう。

総合すると全部明治政府が原因。とはいえ、まあ当時はそれでよかった。それを改善しない今の政府がもっと悪い。

いい大学にいってもこんな状況ではブラック企業にしか就職できないんだから、大学に行く必要なんてない。大学に行かないのであれば、高校にだって行く必要がない。高校にいかないなら、受験勉強なんてする必要ない。だから勉強なんてせずに、好きなことしていればいいじゃない、とずっと子どもに言い続けてきた。で、彼もその言葉通りに好きなゲームをやり、youtubeを見続けてきた。

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ところがだ。

「おれ、そろそろやる気出さないとまずい気がする」

と言い、塾にいきたいと言い出した。勉強の仕方、集中の仕方がわからないと高校に行ったときに何もできないかもしれないという、焦燥感が芽生えたらしい。今の中学校の勉強はちょろいらしく、宿題だけやっていればそこそこの点数がとれるから勉強していないのだが、それだと流石にヤバいと自分で気づいたのだ。

ついにこの日がきたか。身体だけではなく、中身も成長してきたことにシミジミするのであった。