911テロ事件:国や人種、宗教を越えたストーリー

犠牲になられた方に心から哀悼の意を表します。

以下、911事件時にあった、国や人種、宗教を越えたストーリー。

[JK]かしゆか(Perfume)部長のしわざ - パキスタン人青年の手記 ...

パキスタン人青年の手記

 ぼくの名前はウスマン・ファーマン、今年の5月にベントレー大経済学部を卒業した者です。21歳で、十月には22になります。ぼくはパキスタン出身で、イスラム教徒です。2001年の9月10日まで、ワールドトレードセンターの七番ビルで働いていました。ちょうど反対側にある一番ビルで働いている知り合いや友達もいます。何人かは逃げ出すことができて、何人かはまだ行方が分かっていません。ぼくはこの恐ろしい事件をなんとか生き延びました。

 ぼくらがまだ一緒にやっていけるように願って、あのひどい日に、いまだに規模さえ分かっていない悲劇の最中に、ぼくが経験したことをみなさんと分かち合いたいと思っています。ぼくが知ったのは、ぼくたちが誰であっても、どこの出身でも、ぼくらはただ互いに受け入れ合っているんだということです。

 ぼくは毎朝ニュージャージーから電車で通勤しています。というか、そうしていました。今でも何が起きたのか信じられないでいます。あの朝、ぼくは目を覚ましてベッドから抜け出し、電車に乗り遅れるんじゃないかとやきもきしながら、ぎりぎりの一本に乗り込みました。なんとかして仕事に間に合うようにしなきゃとひたすら自分に言い聞かせていたのを覚えています。どうにか7時48分の電車に乗って、ホーボーケンに8時20分に到着しました。着いてみると何か食べようと思い立ちましたが、我慢してPATH(訳注:Port Authorityの経営するNew Jersey州とManhattan間の通勤列車線)に乗ってワールドトレードセンターに向かいました。ワールドトレードに着いたのは8時40分でした。七番ビルのロビーに入ったのが8時45分、そのとき最初の飛行機が激突しました。

 もしもっと後の電車に乗っていたり、何か食べたりしていたら、5分遅れて横断歩道を歩いていたかもしれません。もしそうだったら、炎や破片の雨に降られて、ここでこうしてみなさんに語りかけていることもなかったでしょう。死んでいたかもしれません。

 ロビーにいて最初の爆発音を聞きましたが、よく分かりませんでした。外では工事も行われていましたし、足場が落ちたのかなと思ったのです。エレベーターに乗って27階のオフィスに昇りました。中に入ると、そこは空っぽでした。警報も鳴っておらず、スプリンクラーも作動せず、何もなかったのです。ぼくたちのオフィス、あるいは働いていたオフィスは、七番ビルの南側にありました。ぼくたちは北ビルと南ビルのすぐそばに、文字通り石を投げたら北ビルに届くくらいのところにいたのです。

 携帯電話が鳴って母と話し、生きているよと伝えると、まさにそのとき番目のビルの爆発が起こるのが見えました。ボストンにいる友達に電話して、彼女を起こしてみんなにぼくは無事で、今から逃げると伝えてくれと頼みました。もう一度下を見下ろし、いつも昼を食べていた広場と噴水を見ると、煙を上げる残骸で埋まっていました。どうやらぼくがこのビルに残った最後の一人らしく、エレベーターでぼくが昇って来るときには同僚はみんな階段で下に降りていたようです。避難するときには混乱はありませんでした。みんな落ち着いて互いに助け合っていたのです。妊娠中の女性が階段で下まで運ばれていました。

 ぼくが見たもっとひどい詳細については割愛します。誰もそんな光景を目にする義務はないし、描写するのは人間の品位を越えています。これからの一生ずっとぼくにつきまとうだろうし、ぼくの心はあの事件で命を失った人たちみんなと、事件の痛ましい記憶と共に生き延びた人たちに向けられているのです。ぼくの知り合いがビルから逃げられたのは、千人もの人たちが煙から逃れる道を見つけようと人の鎖を作ったからに過ぎません。あの日はみんながヒーローでした。

 ぼくたちは七番ビルの北側に避難しました。建物からはまだ1ブロックから離れていません。警備の人たちは北に行け、振り返るなと言っていました。5ブロックほど進んで振り返って見てみました。何千人もの人たちが驚愕しながら見つめる中、最初のビルが倒壊しました。そんなことが起きるなんて誰も信じられませんでしたし、今でも超現実的で想像も出来ません。次に覚えているのは、五階くらいの高さのガラスと瓦礫の真っ黒な雲がこちらに転がるように向かってきたことです。ぼくは振り返って大急ぎで逃げました。昨日までどうして自分がこんなに悲しんでいるのか分からなかったけれど、それは逃げる途中で転んでしまったからです。次に起きたことが、ぼくにここに来てこのスピーチをさせたのです。

 ぼくは仰向けに転がって、この巨大な雲が近付いてくるのを見ていました。六百フィートくらい離れていたでしょうか、もう辺りはすっかり暗くなっていました。ぼくは普段から首にアラビア語で安全のためのお祈りが書かれたペンダントをかけています。ちょうど十字架のようなものです。するとハシディズム派のユダヤ人が近付いてきて、ペンダントを手に取って見たのです。彼はアラビア語で書かれた言葉を声に出して読み上げました。次に起きたことは忘れません。強いブルックリン訛りで彼は言いました。「兄弟、嫌じゃなかったら、ガラスの雲が近付いているから、俺の手を取りなよ、ここからずらかろう」彼はぼくが起きるのを手伝って、それからぼくたちはまるで永遠に思えるほどの時間をずっと振り返らずに走り続けました。まさか彼のような人がぼくを助けてくれるとは思いませんでした。彼がいなければ、ぼくはきっとガラスと瓦礫の雲に飲まれていたでしょう。

 ようやく20ブロックほど離れたところでぼくは立ち止まり、二番目のタワーが崩落するのをぞっとしながら眺めました。タワーの下の通りに逃げ出した人がいるんだと気付いたときには恐怖を覚えました。上にも書いたように、あのビルが崩落するなんて誰も思わなかったのです。ショックと信じられないという気持ちのまま、ぼくたちはミッドタウンまで徒歩で行きました。三番街と47番通りの交差点にある姉のオフィスまで三時間かかりました。いくつかの通りは完全に見捨てられ、完全に静かで、車もなく、何もなく・・・ただ遠くでむせぶようにサイレンが鳴るだけでした。
 ぼくはなんとか家に電話して大丈夫だと伝え、ぼくの安否を気遣う同僚と友達に連絡を取りました。

 ぼくたちはなんとかニュージャージーに車で行くことができました。ジョージ・ワシントン橋を渡るときに振り返ると、タワーは見えませんでした。あれは現実のことだったのです。

 世界があの悲劇からまき直しを図るにつれ、道端にいる人たちも激しく非難するようになりました。ぼくの家からそう遠くない所で、あるパキスタン人の女性が身の回りの品々を車に積もうと駐車場を横切っていたところを故意に車で轢かれました。彼女の唯一の過ち(?)は頭を覆ってぼくの故郷の伝統的な衣装を身に纏っていたことだけなのです。コミュニティにいる家族の無事が心配になります。ぼくの姉は今では怖がって通勤に地下鉄に乗れません。ぼくの八歳になる妹の学校はロックダウンされて武装した警官に見張られています。

 暴力は暴力しか生まず、恐怖と憎しみにかられて互いを襲撃し合っても、この惨劇を引き起こした名無しの卑怯者と少しも違わないのです。もしぼくを助け起こしてくれたあの男性がいなければ、今頃ぼくはきっと病院にいたかもしれないし、そうじゃなければ死んでいたかもしれません。助けはいちばん期待していなかったところからやって来て、その結果、ぼくたちは人種や宗教、民族に関係なく、みんなここに一緒にいるんだということをただ教えてくれたのです。これこそがこの国の基礎になっている主義というものです。

 どうか少しの間でも、あなたの周りの人たちを見てください。友だちや見知らぬ人たち、この危機の時にあれば、誰でも助けが必要なときには身近にいる人に助けてもらいたいはずです。ぼくを助けてくれたのは普段は話し掛けてさえくれないだろうと思っていた人でした。今こそニューヨークやワシントンにいる人たちのために何が出来るか自分の胸に聞いてみてください。献血をするのもいいですし、衣服や食べ物、お金を送るのもいいでしょう。亡くなった消防士たちや警察官、救急隊の人たちの家族を助けるための基金も設立されています。いちばん役に立たないのは、ぼくたちが互いに攻撃し合うことで、それこそが連中の思うつぼなのであって、ここにいる人たちは誰もそんなことは望んではいないのです。

 ぼくの名前はウスマン・ファーマン、ベントレー大経済学部を去年の五月に卒業しました。21歳で、十月には22になります。ぼくはパキスタン人でイスラム教徒であり、そしてぼくもまたこのひどい悲劇の犠牲者なのです。今度みなさんが怒りを覚え、自分なりに仕返ししてやろうと思ったときには、どうかこの言葉を思い出してください。
「兄弟、嫌じゃなかったら、ガラスの雲が近付いているから、俺の手を取りなよ、ここからずらかろう」