ヒロシマに再び原爆が落ちる日

「広島は東京(江戸)であり、東京は日本である。」

今回の広島を旅行して分かったことは、実に「日本国」を表している都市ということでした。

広島城にみる400年持続する都市デザイン ([の] のまのしわざ)

そういう意味では江戸・東京と広島というのは相似形の関係にあり、軍都としての発展と日本が軍国主義に傾くのとはまさに一致しています。そして敗戦。原爆投下と原爆被害からの復興と発展もまた日本を象徴することがらといっていいでしょう。

明治時代、富国強兵をすすめるため地方自治を許した幕藩体制から強力な中央集権体制へと移行しました。都市デザインが城下町を基本としたことや、その施工が中央集権体制のために統一されていたことから、東京と広島の都市構造はよくにています。軍国化する日本国を象徴するかのように、広島は軍都広島として発展しました。

そして原爆投下、敗戦。軍都広島から平和都市広島へ変革。

人類史上初の原子爆弾投下による被害は、熱線や爆風による被害、放射線による被曝被害、さらに放射線により放射性物質に変化したモノを体内にとりこむことで、長年じわじわと内部被爆をうける長期的な被害と、短期から長期まで大きな被害をもたらしました。そしてその非人道的な被害は心の傷となって深く刻まれています。

原爆ドームと平和記念公園は凄惨な記憶を風化させたくない一方、当時起きた出来事、現実を直視したくないという感情も内包しています。そのあらわれが平和記念公園の碑に刻まれた言葉。

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「安らかに眠ってください。過ちは繰返しませぬから」

主語が不明です。この「過ち」というの「日本」ということであれば、日本は軍国主義を否定し、平和を目指すという意味です。

一方、これが「人類」ということであれば、原爆といった兵器を開発し、使用したことを繰り返さないという意味になります。

しかし原爆を使用したのはアメリカ合衆国であり、もし原爆投下による「過ち」があるのならそれはアメリカ合衆国が犯した過ちのはずです。

いかようにでも解釈できる曖昧な言葉は、今の日本国の迷いと矛盾を象徴していると感じました。

まず原爆投下に是非ついて。

原爆投下は戦争終結を早め、本土決戦を行った場合の多くの犠牲者を考慮すると結果的に被害は最小になった、というのがアメリカ合衆国・連合軍の言い分です。これは広島で犠牲になった市民やその家族、親類の感情を考えると到底受け入れることができません。

ところが終戦が結果的にアメリカ的民主主義、言論の自由などを手に入れた一部の国民からみると軍国主義からの「解放」の意味合いがあり、この論理を受け入れる風潮も見受けられます。その論理の延長上に、

「日本が戦争を行ったから原爆を投下された」

があるのでしょう。そうなると先だっての「過ち」とは日本が軍国主義に走り、アジアを巻き込んだ戦争を起こしたことになります。

次に終戦後の憲法第9条と自衛隊、そして日米安全保障条約(安保)の問題へとつながります。

憲法第9条は「平和憲法」と呼ばれ、戦争を永久に放棄、そのための武力を持たないことが明記されています。一方で「自衛隊」という武力を持つ軍隊が組織されています。

日本国憲法第9条 - Wikipedia

# 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。[1]

# 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

今までも色々と議論されており、憲法改正も取りざたされていますが結果的に1946年に公布、1947年に施行されてから一度も改正されていません。矛盾をはらんでいるかもしれないとはいえ、63年間そのままです。その間、世界は戦争だらけでしたが、日本は戦争をしていません。この事実が物語る意味はなんでしょうね。

そして核武装論について。

かかる国際情勢の変化において、日本のおいても核武装論を議論する風潮が昨今生まれました。それまではその議論すら憚られていたことを考えると、この変化は大きなものです。ただ結論先にありきで、「核武装はしない」前提ですが。

国際情勢の変化とは、隣国の核武装がいよいよ本格化したからです。10年前のテポドン発射からゆっくりではありますが着実に長距離核弾頭の所有に向かって邁進しています。つまり脅威が可能性から現実のものとなっています。

「今こそ知りたい!自衛隊の実力」 ([の] のまのしわざ)

1998年にテポドン1号の発射実験があったのですが、あれからもう10年以上がたっていたのにも驚きました。1999年当時すでにイージス艦4隻、PAC-3の配備があったので今回のテポドン試射の体制とほぼ同等になっていました。

「日本は原子爆弾をつくれるのか」山田克哉著 ([の] のまのしわざ)

日本には今いったものすべてが現在ありません。核材料の兵器級プルトニウムもなければ、爆縮レンズ技術もないし、それを搭載するミサイル技術もありません。ですから簡単に「核武装」だなんだといっても、そもそも核ミサイルを開発することが現段階では不可能なのですから、それこそ絵に描いた餅です。誰かが教えてくれる、売ってくれるとでも思っているのでしょうか。

日本人は原子爆弾をつくれるのか ([の] のまのしわざ)

核武装論が浮上するのは、戦略的核兵器が冷戦時代において核使用の抑止力になってきたという実績があるからです。これも歴史と照らし合わせれば事実で、ヒロシマ、ナガサキ以来核兵器の使用はされていません。

その上で考えたのは、核の脅威から日本は誰がどうやって守るかということです。

「広島は東京(江戸)であり、東京は日本である。」

冒頭でこう言いましたが、現実に脅威にさらされている日本は東京であり、そして広島と考えると理解が進みます。

先日のテポドン発射実験では、迎撃ミサイルPAC-3が東京の皇居周辺をはじめ都内に配備されました。これは標的となった東京を守るためです。

では標的が広島だったらどうなるのでしょう?

一度原爆が落ちているから二度目はない?とでもいうのでしょうか。

そんなのは関係ないですよね。

広島が二度と核攻撃されない保証を誰がするというのでしょう。

その場合、口ばかりの平和主義がなんの役に立つというのでしょう。

原爆が落ちた後の惨状を見れば、落とされてからでは手遅れなのです。

・・・

もう一つ、違和感をもったことがあります。それは原爆投下の理由づけ、論理です。

わかりやすく「落とす側の論理」と「落とされる側の論理」としましょう。

広島で強く感じたのは、どういうわけか「落とす側の論理」が支配的だったということです。つまり「日本が悪いから落とされた」という論理です。「日本が悪い」というのは、軍国主義であり、侵略戦争であり、広島が軍都であったからいけないという話です。

「落とされた側の論理」というのは、民間人に被害が及ぶのは国際協定違反であり、大量殺戮であるというもの。つまり戦争であってもやってはいけない行為です。

日本は唯一の「被爆国」であり、国際的にも今後核兵器抑制の立場をとる上でも断固持ち続けなければいけないのは「落とされた側の論理」です。

ところが平和主義という名のもとになぜか「落とす側の論理」がまかり通っているのです。もしこの論理が支配的であれば、まったくもって核兵器の所有・使用が正当化されてしまうのにもかかわらず。

「平和都市広島」という呼称に強く違和感を感じたのは、ではその平和とはなにか、二度と広島に核兵器が落とされないために、

あなた方(私たち)は命をかけているのか

という点。

これは映画「サマーウォーズ」のテーマでもあります。

映画「サマーウォーズ」の2回目の鑑賞と感想 ([の] のまのしわざ)

命を懸ける、というのはつまりはリスクをとるということ。自らの命を捨ててでも守るものがあるということ。

映画「サマーウォーズ」の2回目の鑑賞と感想 ([の] のまのしわざ)

昨今の風潮としては口ばかりで、自分を安全な場所において、そこから攻撃(口撃)するというのがはびこっています。

結果として日本は第二次世界大戦後63年間戦争をしていません。世界にこれだけ戦争があったにもかかわらず。しかし平和主義者と呼ばれる人が自衛隊について、日米安全保障条約、そして憲法第九条について物言いをする様が「好戦的」なのが象徴的です。

「大人」というのは一人前と認められることです。人を守ることができるのが大人であり、そして自分を守ることができます。その意味で、日本は子供の国で、まだまだ大人になりきっていない、未熟な国家ということができるでしょう。

名場面

「人を守ってこそ自分を守れる・・・己のことばかり考えるやつは、己をも滅ぼすやつだ!」(勘兵衛)

「日本の父へ再び」グスタフ・フォス著 ([の] のまのしわざ)

「やはり、日本の民主主義が早く大人になるようにお祈りするほかはないね」

我々日本人はお祈りしている場合じゃありません。行動しなければ。

そんな本日、8/30は衆議院議員選挙です。
本当の大人になるために。