広島城にみる400年持続する都市デザイン

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先日広島旅行に行ってきました。広島といえば世界遺産ともなっている原爆ドーム・平和記念公園と厳島神社なのですが、もうひとつの興味はもちろん、広島城。城、石垣マニアとしては見逃せないポイントです。

さて広島城の位置ですが繁華街、原爆ドームからとても近く、旧広島市民球場のすぐ側。市電である広電で原爆ドーム前、紙屋町から歩くことができます。交通至便ですね、ってよくよく考えると逆の話。広島城は城下町のデザインまで考えて築城されており、その城下町が今も繁栄しているということなのです。

広島城は毛利元就の孫にあたる毛利輝元が築城。大阪城、聚楽第を模して平城として城下町まで含めてデザインされたようです。豊臣秀吉の築城術がルーツとなれば、これはもう名城に間違いありません。

名城の由来 ([の] のまのしわざ)

秀吉の功績はまだまだあります。当時城といえば「山城」、つまり自然の要害である地形を生かして作っていたものを「平山城」、平野に小高い丘のような場所に作る城や「平城」、平野に作る城へと変化させていったところです。これは城が本来もつ要塞としての機能よりも「城下町」の発展、経済圏の拡大を重視した結果そのような方向に進んだとのこと。従来城下町といえば見通しを悪く、クランク状に道を配置していたのを街道筋に改めることで流通を重んじた施策の結果だといいます。その思想は家康にもつながり、というよりも江戸城をデザインしたのは秀吉が重用していた技術者そのものであり、江戸は城下町をらせん状に配置することで無限に発展する設計になっているとのこと。その結果現代の関東平野総都市化につながるわけですから物凄いことです。

さて現存する広島城址はというと本丸と二の丸の極々限られた場所のみ。天守閣は原爆の爆風を受けて倒壊、瓦礫となった木材は戦後復興の時に住民がバラックの建設や、薪として利用したと言われています。そのため今の天守閣は鉄筋コンクリートによる、外装の復元。中は資料館として使われています。ここは熊本城と同じですね。

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熊本城の本丸御殿は豪華絢爛、やりすぎなほどに忠実再現 ([の] のまのしわざ)

熊本城の天守閣は再現されているものの、中身は鉄筋コンクリート、つまりビルディング。コンクリートむき出しの内部構造に風情はまったくなく、外見をのぞくと建物的価値は限りなくゼロです。

一方で二の丸建物はきちんと木造で再現されたもので、なかなかの見ごたえです。

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広島城は明治時代には別の機能を持ちます。それが大本営としての機能。日清戦争の際には大本営が短期間ではありますが設置され、天皇陛下が直接指揮をとった場所。

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「戦役広島大本営」という史蹟にもなり、大切に保存されていた大本営の建物も原爆の爆風でおなじくバラバラに。現在は跡地ということで基礎だけが残されていますが、建物がなくなったので「史蹟」の石碑は撤去されることになく、文字だけ埋めて残されています。歴史を感じますね。

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広島城の規模がどれくらいだったかというと、こんな感じで現在残されているのが中央の真四角の本丸と二の丸のみ。それ以外はすべて現在市街地となっています。武家屋敷があった場所は官公庁や市民球場などの施設となり、町人が住んでいた界隈は市街地へ。山陽道が通っていた街道筋は今もアーケード街として賑っているのです。

戦前は軍都広島として発展し、陸軍五師団兵営が広島城址内に設営、原子爆弾を落とされたときの第一報はこの広島城の中にある通信施設から発せられました。

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なんと石垣の下に作られた半地下の通信室(防空作戦室)です。一見すると石垣の一部にしか見えず、城址ということもあって素通りしてしまうところに、原爆の第一報を発した中国軍管区司令部の地下通信室があったのです。逆にいうと原爆の爆風を受け、歴史的な天守閣、戦役広島大本営が吹き飛んだにも関わらず、石垣に守られた地下通信室は生きて

「新型爆弾の被害を受け、広島は壊滅」

との第一報を発信できたのです。

旧中国軍管区司令部防空作戦室

広島城とその周辺には、多くの軍事施設(中国軍管区司令部など)があり、ここには半地下式の作戦指令室、通信室が設けられていた。この通信室では、多くの軍人、軍属に混じって、学徒動員された比治山高等女学校の女生徒たちも働いていた。  原爆で、市内の電信電話は破壊されたが、かろうじて残ったここの軍事専用電話を使って、女学生が広島の壊滅を通信した。これが、広島の原爆被災の第一報といわれている。

軍都広島としての発展は原爆の被害により終わり、その後は平和都市広島としての整備と復興が始ります。

arch-hiroshima 軍都としての景

戦後、広島城の広大な陸軍用地は公園や市街地に形を変え、陸自の駐屯地は郊外の海田に置かれ、広島デルタから軍事色は一掃された。どんなに冷ややかに見られようとも盲目的絶対平和主義を叫ぶ地域性は世界的に見て極めて貴重で、守っていくべきだと思う。

arch-hiroshima 広島の建築 基町・長寿園高層アパート

原爆スラムの形成

広島市は旧陸軍用地(国有地)である基町エリアを公園として整備する方針を固めて1946年に都市計画決定したものの、著しい住宅難に対応するために応急的な処置として公営住宅(木造平屋)を建設せざるをえず、また河川敷や公営住宅のスキマなどに勝手にバラック(*1)を建てて住みつく者も続出し、一帯では「原爆スラム」と呼ばれる木造密集住宅地が形成されていった。

広島城からほどちかい場所に、この原爆スラムが形成されました。

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天守閣から見えるこの高層アパートは「基町・長寿園高層アパート」。最初見たときはなんて素敵なマンション、と思ったのですが実は市営アパートで原爆スラムの住民を移転させるために作られたものと聞いて驚きました。しかもその原爆スラムのクリアランス事業は昭和40年代の話、つまり私が生まれて以降のこと。つい最近じゃないですか!?

集落のように巡る楽しさがある高層集合住宅

この原爆スラムを再整備と住宅不足を解消するため、4500戸を高層住宅として建設することとなった。エリア内には同時に、学校、集会所、ショッピングセンターを、太田川沿いやスラム街の跡地に公園緑地を整備するというプロジェクトだった。こうして基町高層アパートは1972~1976年に竣工した。設計は大高建築設計事務所(大高正人)で、当時は大変センセーショナルな建築で、今では建築計画学の教科書には必ず載っている集合住宅である。

基町高層アパートは、建築を都市レベルで建設した早期事例として特筆すべきであるが、そこに織り込まれたアイデアは現代でも通用するものもある。一方、集落町並みとして歩いた場合どうかというと、とても面白いのである。

戦後はまだ続いていたという例ですね。リンク先の航空写真を見る限り、まさしくシムシティな感じです。

そして時代は平成、しかも21年。広島の町から戦後の香りは抜けて、平和都市としての町並みとなったものの実は普遍のものがあります。それは広島城の城下町としてのデザイン。

明治時代、軍都広島として発展の最中、堀は埋めたてられて大通りに変身しました。そしてその通りは戦後拡幅されることはあっても場所は変わることはありません。山陽道として賑った繁華街は、原爆の爆心地になったにも関わらず、今もアーケード街として繁華街となっています。

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つまり広島は軍事都市として発展、そして原爆の大被害を受け、戦後復興をしたとしても都市のデザインは1600年頃の広島城築城時のままということなのです。400年も持つ都市デザイン、しかも原爆の被害を受けているというのに。

江戸城を歩く:江戸城天守閣を復元して、東京を世界の観光都市に ([の] のまのしわざ)

江戸城も実は同じく、現代の東京につながる都市デザインとなっています。現在の東京の都市デザインは江戸の遺産で成り立っているといっても過言ではありません。江戸城築城時、日比谷から先は海だったを四谷界隈の堀を作ったときに出た残土で埋め立て、現在の銀座が生まれました。そして運送の要であった川を埋め立てて作られたのが首都高速です。堀を埋め立て大きな通りが生まれたのは広島同様です。

そういう意味では江戸・東京と広島というのは相似形の関係にあり、軍都としての発展と日本が軍国主義に傾くのとはまさに一致しています。そして敗戦。原爆投下と原爆被害からの復興と発展もまた日本を象徴することがらといっていいでしょう。

その根幹に一貫して流れているのは築城による都市デザイン。つまり豊臣秀吉が最初に作り上げた平城、城下町をセットとしての経済発展を見越した都市作りです。江戸城、広島城を中心とした都市作り。

城は当然ですけど、軍事的拠点です。そういう意味では軍都広島と呼ばれる以前から軍事拠点であり、その点だけでいえばすべての都道府県の元となった幕藩体制は軍事拠点である城を中心としています。そしてその都市デザインは影響の大小はあれども、今も生きているのです。

つまり、豊臣、徳川すげーってことなんですが、日本の国づくりの基礎はこの時代にすでに成しえて終わっているんですよね。400年先まで続く都市なんて、普通は作れません。

やっぱり城は天守閣が鉄筋コンクリートだろうが、石垣が低かろうが、必ずや見ておく必要がありますね。その町が、日本が見えてきます。

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