去年から引き続いている天草ツアーのしめくくりとなるのは、ここ島原。
まずこちらは島原城の石垣。
その他写真⇒島原城 - a photoset on Flickr
深いお堀とあいまって、石垣がとても立派です。
一方、島原の乱の最終的な舞台となった原城跡はこのような荒廃ぶり。
その他写真⇒原城跡 - a photoset on Flickr
見事なまでに対照的ですが、この二つのお城、深い因縁があったのです。
島原城 - Wikipedia江戸時代は島原藩の政庁であり藩主の居所であった。成立当時の島原藩は4万石であったが、石高に比べると極めて立派な城である。
そもそも島原城の石垣などに使われた石は原城を含むいくつかの支城からとってきたもの。そして、
島原の乱 - Wikipedia島原の乱が天草と連動した原因の一つは、寺沢広高が天草の石高を過大に算定したことにあった。すなわち寺沢は、天草の石高を田畑の収穫を3万7000石、桑・茶・塩・漁業などの運上を5000石、合計4万2000石と決定した。しかし実際にはその半分が妥当な数字であった。寺沢が石高を実際の生産量の2倍に算定したため、徴税は過酷となり、農民や漁民を含む百姓身分の者たちを一揆に追い詰め、武士身分から彼らと同じ百姓身分に転じており村落の指導者層となっていた旧小西家家臣を核として密かに一揆の盟約が成立、さらには反乱に立ち上がることによる内戦に至ったのである。
つまり4万石に対しても立派すぎる島原城の新築工事であったわけですが、実力はさらに半分程度。そのため過酷な年貢取り立てを行います。
島原の乱 - Wikipedia重政は徳川家臣団の中での地位の向上を図り、江戸城改築の公儀普請役や彼が独自に計画したルソン遠征、さらには壮大な島原城の新築のための過重な年貢の取立てに加えて、厳しいキリシタン弾圧を始める。
農民の不満、キリシタンの不満がちょうど呼応したのでしょう。その結果が島原の乱へとつながります。
島原の乱 - Wikipedia「細川家記」「天草島鏡」など同時代の記録はすべて反乱の原因を年貢の取りすぎにあると書いているが、[要出典]領主松倉勝家は自らの失政を認めず、反乱を起こした一揆がキリシタン信仰を結束の核としていたことをもって、これを反抗的なキリシタンの暴動と主張した。[要出典]幕府も以後、島原の乱をキリシタン弾圧の口実としたため、「島原の乱=キリシタンの反乱(宗教戦争)」という一面的な見方が定着した。実際には乱の終結後に松倉勝家が悪政を責められて打ち首に、寺沢堅高も失政をとがめられて減封となっているように幕府自身が反乱の原因をよく理解していたのだが、それを認めることは、松倉・寺沢両家に島原、天草に封じて統治を任せた幕府の失政を認めることになるため、幕府の公式見解もまた、この反乱はキリシタン反乱というものであった。
表向きは「キリシタンの反乱」とされてますが、実際には日本最大規模の「農民一揆」だったことは当時から明らかだったのです。
原城に籠城した反乱軍3万7千人に対し、幕府軍は総勢12万5800人。合計16万人を超える軍勢がこの原城に集まったというのですから戦慄します。ちなみにF1で地獄をみた富士スピードウェイの決勝日に集まったのが14万人です。
そして兵糧攻めのあげくの総攻撃でこの3万7千人は1晩で女子供を含めて皆殺しにされたのですよ。たった1晩で。想像するに余りある地獄絵図です。富士スピードウェイに例えるならば、東バスターミナルに集まった公称2万人、実際には4万人弱が一晩で皆殺し。
実際この「原城跡」では石垣を破壊、その際に遺体ごと埋めたらしいのですが、発掘作業で幾多もの人骨が掘り出されるそうです。この乱で幕府が「皆殺し」を指示したのは、それだけ幕府の統治を揺るがす大事態で、見せしめの意味があったに違い有りません。
逆にその後これに匹敵する大きな内乱はなく、天下太平の世を迎えることになったわけです。やはり米と石高制度、城は日本の根幹をなす、重要なエレメントだと再認識しました。
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