私にとって「コメの本」以来の歴史書、といっても過言ではないでしょう。お城、築城を中心に戦国時代(安土・桃山時代)から江戸時代初頭までをカバー。
名城の由来 そこでなにが起きたのか
宮元 健次
最近とみに「城オタク」化が進んでおり、興味をもっていたところ書店で見かけてなんとなく買ってしまいましたがこれが大成功。読みやすくとても面白かったです。
歴史の教科書の問題点は時代を時系列に教えすぎているようで、さらに枝葉末節なことは教えるくせに対極的な流れが掴みにくく、俯瞰した視点というよりも、傍観的で興味が沸きません。しかし「コメの本」同様この本では築城を中心にすえ、時代はそれぞれ前後、築城に関わった施政者をひっぱり出し有機的に結合させることで関連性の多重構造を生み出してより深い理解を与えてくれることに成功しています。
帯にあるようにまず脚光を浴びるのが「秀吉」。秀吉は有史に27歳で登場するのですが、それ以前の経歴について明確な資料がありません。筆者・宮元健次氏は秀吉はおそらく「ワタリ」と呼ばれる土木建築家集団と深いつながりがあり、その人脈を生かして革命的な築城や治水工事をしたのではないかという大胆な仮定をするところから始めます。なるほど、そう仮定すると有名な「墨俣一夜城」や、水攻めによる無血開城(備中高松城跡)などの前代未聞の戦法も理解できます。
特に一夜城に関しては、一夜は誇張だとしても、プレファブ工法を利用し予め他の場所で作った材料を川で流し、一気に組み立てることで一夜にして城ができあがったかのような「演出」をしたのではないかと推測しています。このへんの下りにはかなりさぶいぼが立つ位震えます。
秀吉の功績はまだまだあります。当時城といえば「山城」、つまり自然の要害である地形を生かして作っていたものを「平山城」、平野に小高い丘のような場所に作る城や「平城」、平野に作る城へと変化させていったところです。これは城が本来もつ要塞としての機能よりも「城下町」の発展、経済圏の拡大を重視した結果そのような方向に進んだとのこと。従来城下町といえば見通しを悪く、クランク状に道を配置していたのを街道筋に改めることで流通を重んじた施策の結果だといいます。その思想は家康にもつながり、というよりも江戸城をデザインしたのは秀吉が重用していた技術者そのものであり、江戸は城下町をらせん状に配置することで無限に発展する設計になっているとのこと。その結果現代の関東平野総都市化につながるわけですから物凄いことです。
そして見逃せないのが宗教とのかかわり。織田・豊臣が奨励したのがキリスト教。そして禁止したのが徳川。織田・豊臣がキリスト教を奨励する引き換えに手に入れた西洋の先進技術、それがやはり城作りに生かされています。平城が成立するのは「鉄砲」の存在が前提であり、またそれを有効に活用するために眺望の良い「天守閣」、つまりは戦艦の艦橋のようなもので遠くの敵を見晴らせる高い建物が必要となったわけです。平野部に高い天守閣は逆に周りからみても見事なランドマークとなり、現在の城といえば「天守閣」の見事さ、といった評価につながります。
一方で筆者は「現存している城が良い城ではない。たまたま残っただけのつまらない城であったり、天守閣の豪華さだけで城の良し悪しを決める風潮がある」と指摘しています。そして居城を見分不相応に立派にしたが故に起きた悲劇が「島原の乱」だといいます。
島原の乱といえばキリスト教弾圧に耐えかねたバテレンが反乱を起こしたというように教わっていますが、実際には自国の石高を超えた立派な島原城を作るために課税を厳しくし、数年続いた天候不良にも関わらず厳しい取立てを続けた結果の「百姓一揆」が実体であったと指摘してます。もちろん同時期に厳しいキリスト教弾圧があったのも事実で、そのストレスが丁度ピークに達して起きた乱です。
結果は原城にたてこもった37,000名の百姓に対して25万ともいわれる幕府軍が一夜で女子供を含む全員を抹殺したと言われています。鉄砲や刀しかなかった時代で一晩で37,000名を抹殺という虐殺は記録的な数字です。これが原因で天草はその後「天領」といって幕府直轄の土地となります。しかしその後150年たって「隠れキリシタン」が発覚、調べてみると天草の40%の農民が隠れキリシタンだったことが分かったものの、不問にされたという事件につながります。おそらく不問にされた理由は年貢の問題で、貴重な労働力を半数近く失うことは受け入れられなかったのでしょう。そこはさすが、日本はおコメの国ですから。この辺はこの「名城の由来」には書いてありませんが。
この島原の乱で出てくるのが有名な「宮本武蔵」。巌流島あと、名誉挽回の一戦とかけたものの、キリシタンの投げた石で足を負傷し活躍できなかったというエピソードがあります。そしてその宮本武蔵の「巌流島」ですが、勝利したものの口幅ったく特にその後語られません。これを資料をもとに大胆に推測するとどうやら・・・
木刀で殴った佐々木小次郎は一旦は気を失ったものの立ち上がり、その後隠れていた武蔵の弟子たちのリンチにあって死亡した、というもの。巌流島は元々「舟島」と呼ばれていたが、負けた小次郎の号「巌流」が付けられていることからも、小次郎を悼んでのことではないかと推測しています。
新鮮な指摘として織田信長の行った3000丁の火縄銃を1000丁づつ3段にして戦った「三段撃ち戦法」ですが、これは世界的に見てもこれだけの大量の銃器を使った鉄砲隊は初めてのこと。鉄砲が伝来してから数十年で世界レベルを越える武装をした日本という国はまさに戦国時代だったわけです。もちろんこれを支えたのがキリシタン保護の見返りによる西洋技術の輸入だったのはいうまでもないでしょう。この長篠の戦で武田の騎馬隊を打ち破っただけでなく、築城的には従来の山城から平城へと変化させた大きなターニングポイントといってもいいはずです。
戦国時代が終わり、江戸時代が天下平安の世となるとお城の要塞としての機能がまったく必要なくなりますが、熊本城のような先進的なお城が残りました。その城が要塞として機能を果たすのは西南戦争を待たなければなりません。
西南戦争で政府軍、当時は薩摩軍も政府だったはずなのでなんとも言えないのですがここでは教科書どおり明治政府軍である「熊本鎮台軍」3400が立てこもり、西郷軍13000が攻めるものの52日間耐えて勝利したというのです。250年以上前にデザイン、築城されたいわば「遺跡」のような城が機能したのですからその衝撃たるやいかほどだったでしょうか。西南の役、日本最大の内乱は薩摩軍敗退で終わるわけですが、熊本城、人吉城をはじめ熊本から鹿児島への至る場所で西南の役の爪あとが残っています。明治政府に多くの人材を輩出した薩摩、鹿児島県もその後政治の表舞台にたつことができないのが歴史の重さを感じます。
そんなことを色々考えさせられた本でした。また城廻りをしたくなってきました、、、とりあえず近場の八王子城址にでも行ってみたいと思います。
男たちの夢―城郭巡りの旅
斎藤 秀夫