仙台城跡・青葉城は石垣の博物館:軍事力のパワーシフト、武力から知力へ

DSC_2412

もはや2か月が過ぎようとしていますが、Perfume ライブツアーで仙台に行った時、仙台城跡・青葉城に行ってきました。

仙台駅から徒歩で青葉城へ。

DSC_2345

広瀬川にかかる「大橋」を渡るとそこが青葉城です。

青葉城は大きく分けると本丸、二の丸、三の丸と3つから構成され、現在二の丸は東北大学、三の丸は美術館に使われています。本丸も神社が設置されているくらいで他にめぼしい建物はなく、まさに「城跡」といったおももちで石垣以外特に当時を偲ぶ建造物はありません。

しかし、この石垣が青葉城、唯一にして最大の見どころだったのです。

まず石垣の種類から。熊本城の説明書きから引用します。

石垣進化論:熊本城は加藤清正が作り、細川が磨き上げた ([の] のまのしわざ)

日本全国、ごく一部の城郭・石垣ファンの皆様、お待たせしました。熊本城のもっとも特徴的な、石垣の進化と変化を今に残す「二様の石垣」のご紹介です。

DSC_9600
(野面積)

近世城郭の石垣は、初期のものを、野面積みといい、自然石を割って積み上げたものです。

中期のものは、打ち込みはぎといい、槌で石材を積みやすく加工したもので、熊本城の石垣のほとんどがこの方法です。

そして、後期のものは切り込みはぎといい、角も表面もきれいに削った隙間のない石垣です。

DSC_9601
(打込ハギ)

DSC_9602
(切込ハギ)



また隅角部の石垣については、穴太積にはじまり、算木積へと発展していきました。

DSC_9603
(算木積・穴太積)

DSC_9604
(熊本城・二様の石垣)

このように熊本城は名城作りの達人、加藤清正公によりほとんど打込ハギの石垣、しかも武者返しといった当時最新最高の技術を用いて建造されています。そのためどの石垣も高く、キレイにそびえてたっており、平山城として機能美を醸しています。

一方の青葉城、こちらは広瀬川でできた断崖、後ろの山など自然の要害に富んだ山城としての性格が強いです。そのため本丸の前面(平野川)は高い石垣がありますが、裏は崖を利用したり低めの石垣で守りを固めています。

DSC_2658
(本丸裏手の道。非常にせまい)

本丸の高い石垣が特徴的なのが、3期に渡る改築の跡。

DSC_2413
(I期石垣、II期石垣、III期石垣)

DSC_2448
(青葉城・石垣断面構造模式図)

実は仙台というお土地柄だけあり、地震に見舞われそのたびに石垣が崩れています。いくら天下泰平の時代とはいえ、崩れた石垣を、しかも本丸の石垣をそのままにはしておけません。ということで外側に新しく積みなおすということを2回繰り返しています。

DSC_2419
DSC_2639
DSC_2418
(青葉城・本丸石垣)

その結果立派なで(当時として)モダンな石垣になっていますが、その周辺にはまだオールドファッションな野面積が残っています。

DSC_2397
DSC_2400
(三の丸・清水門跡)

低い石垣ということと、戦略上重要ではないことから野面積のままです。

DSC_2401
(仙台藩御用酒発祥の地)

ここは清水がわき出たということで、日本酒を造っていました。これだけみると石垣を新しく作るよりも酒造りに精をだしていたのではないかと疑いがちですが、石垣を作るには幕府の許可がないとできず、なおかつオーバースペックな石垣を作ることは謀反、幕府転覆の嫌疑がかけられて未然に逮捕・処分されてしまう、恐怖政治だったことも作用しているようです。

さてこの石垣の改築、修復工事は本丸の表の立派な石垣にとどまりません。本丸の裏側、山側にはもっと明確な石垣があったのです。

DSC_2649
(左から野面積、打込ハギ+切込ハギ、角は算木積?)

みて分かるように左側、真ん中、右側で明確に石の形や大きさ、積み方が異なります。これも同じ時代に行われたわけではなく、おそらく同じ地震で崩れて修復したに違いありません。

DSC_2652
DSC_2653
(一面切込ハギ)

表側は全部キレイにモダンな切込ハギになっていますので、こちら側に新しく最新技術で積みなおしたのでしょう。


DSC_2664
(中門、打込ハギ)

DSC_2711
(二の丸・大手門、切込ハギ)

天下泰平の世の中、山城はなにかと使い勝手が悪いです。そのため執務をより平野に近い二の丸に移すことになりました。二の丸・大手門もモダンな切込ハギで作られているようです。

このように青葉城の石垣の積み方をみていると、築城当初、1600年前後、さらに1650年前後と3期に渡って石垣技術が変化、熟成していることが見て取れます。そのため「石垣博物館」と呼ばれることも。

仙台城 埋もれた古城 

とにもかくにも、名城と言うに偽りはありませんが、本当の城郭らしい遺構は本丸内よりもむしろ大手門~詰めの門の間の食い違い虎口、曲輪の道沿いの野面積み石垣群、本丸を取り巻く苔生した石垣などにあります。とくに曲輪の道は城郭ファンなら必ず歩いてみるべし!きっと観光地でない仙台城の姿に、満足できるはずです

さらに江戸時代の天下泰平がすすむとこの二の丸ですら中心部(現在の仙台駅周辺)から遠いとなり、城主は平野部に新しく作った平城へと移り住むことになります。つまり城に砦としての機能を求めず、城下町の商業的発展が重視された時代へとシフトしているのがここ青葉城の歴史をみると手に取るように分かるのです。

そして近代、江戸幕府終焉にあたり青葉城は新しい段階へと踏み出ます。それが富国強兵の要としての役割です。

鎮台、師団がおかれたのは城の軍事的役割としての性格上、自然なことです。戦後は進駐軍が駐留するのも当然の成り行き。その後ここに東北大学が入居することになりますが、それまでの「武力」による軍事力から「知力」による軍事力へとシフトしたともとれます。つまり現代において、日本に必要なのは武力ではなく知力、知識や科学技術といった力に変化したわけです。

石垣が城壁としての役割、最新技術を導入しながら積み方が変化し、政治的な役割の変化から山城から平山城、そして平城へと移ったこと、駐屯地から占領、進駐軍が駐留、返還後国立大学が入居したことを照らし合わせると、ここ仙台・青葉城は軍事力のパワーシフトがみてとれる格好の場所といえるでしょう。

そういった意味で、遺構は石垣以外ほとんど残ってない仙台城跡ですが非常に興味深く、ミルフィーユのように折り重なった意味合いを一度に観察できる場所として貴重でした。

【関連エントリー】

広島城にみる400年持続する都市デザイン ([の] のまのしわざ)

その根幹に一貫して流れているのは築城による都市デザイン。つまり豊臣秀吉が最初に作り上げた平城、城下町をセットとしての経済発展を見越した都市作りです。江戸城、広島城を中心とした都市作り。

こちらもPerfumeのツアー、広島公演時に訪れました。そうです、実はPerfumeの地方遠征場所は城とセットで決めているんです。