石原慎太郎とブロガーが議論(3)

プロローグ:ブログ、ブロガーに対しての個人的な見解を展開。

これだけ仕事などをやっていても、それでも「余っている」ものがある。
それを表現したい。他者との関わりを持ちたいという欲求がある。
プレゼンテーションというか、自己顕示欲といってもいいかも。
それで今は自伝を書いているけど、政治関係ではない。
自分は本職を「人生家」と呼んでいる。実際には「物書き」。
そういえば最近ネットでマーケティングして書く物書きがいるが、最初出てきた時期待したけど
今はダメになった。
ブログは趣味。君たちも「余っている」ものがあるからじゃないのかな。

どうも石原慎太郎はこの場は政治家の顔ではなく、物書き、アーティストとしての石原慎太郎だった模様。ブログ、ブロガーの行動原理について理解とシンパシーを持っていると解釈しました。

参考リンク:鮮烈デビュー『太陽の季節』芥川賞受賞

(相手を)「信頼できません」という人がなんでもかんでも
情報公開しろといってくる
実際にはそれにより例えば捜査などで円滑にいっていたことが出来なく
なったりしている

イベント後、マスコミから「対立候補の悪口いっていませんでしたか?」の質問がありましたが、おそらくこのくだりがそう。調べてみるとこういった背景があったようです。

参考リンク:都知事選:「情報公開」が争点に浮上-話題:MSN毎日インタラクティブ

公立教育の水準が下がっているのではないか?
私立は価値基準があるところが多い
公立は、現在そういったものがない、希薄になっている

これは教育勅語を捨てたことと無関係ではないはず。教育勅語に関しての私の見解は以下の過去エントリーから。

[の] のまのしわざ: 戦後教育の最大の失敗は教育勅語を捨てたこと

最近復刊したという「井深大の心の教育」を読みました。もう目から(またもや)うろこです。

その最たる例が「戦後教育の最大の失敗は、教育勅語を葬ってしまったこと」という衝撃的な章です。どうしてあの聡明な井深さんがそんな森元首相のようなことをいうの??ととにかく読み進めてみるとその真実が分かりました。単純なことです、余りにも私が「教育勅語」に対して糊塗された先入観で側面しか見てなかったことに気づかされましたし、ここでも無知って罪だなと感じました。しかもこれを1980年代に主張している井深さんにとにかく感服です。

[の] のまのしわざ: ワールドカップサッカーに想う

愛国精神の元は家族を愛する心です。家族を愛し、親を敬うのが基本。教育勅語の12の徳目の中の「孝行」「友愛」「夫婦の和」などにもあります。教育勅語ではネガティブなところばかりクローズアップされ、とりあげること自体が批判の対象となるようですが、そういう風潮によって中に含まれる上記のような徳目すらも遺棄されてしまう傾向があるのは嘆かわしいばかりです。

そして教育論について。

幼年期、義務教育期間中は「つめこみ」すべき
その時期に「ゆとり」とかいうから真逆

「つめこみ教育」に関して、同じく井深大「心の教育」ではこのように紹介していることを思い出しましたので引用。

「欧米の知的教育信仰はもうやめるべき」p.132
わが国は戦後、アメリカから知的教育のノウハウを取り入れ、その方向を極端なまでに追求してきました。ところがその結果、知的教育の面だけでいえば、前にも触れたように、日本の教育はすでにアメリカをはるかに抜き去ってしまっているのです。(p.133)

そしてアメリカでの教育に対する報告書、「危機に立つ国家」では当時(1980年代)の教育レベルや教師の質の低下、非行などの荒廃を嘆き、どう教育改革を進めるかまで踏み込んだ内容を引き合いに出しながら、

具体的には産業社会との接点となる中等・高等教育の見直しに重点が置かれ、しかも”日本に見習え”式の改革内容が目立っています。例えば理数科やコンピュータ教育の重視、一日の授業時間や年間登校日数の増加、宿題の義務化、大学入試のレベルアップ、教員の質の向上、等等。日本ではむしろ”詰め込み教育だ”としてやり玉にあがっている点が、逆に(アメリカで)注目されているわけです。(p.135)

まさに「真逆」です。1984年に出されたこのアメリカの報告書の内容、「教育レベルや教師の質の低下、非行などの荒廃を嘆く」というのはまさに現在の日本で起きていることです。そしてこういった歴史背景を知ると

文部省はバ○ばっか

という発言にも納得です(w

教育に関して、私のバイブルとなっているのは母校、栄光学園の初代校長であるグスタフ・フォス神父による「日本の父へ」。

[の] のまのしわざ: 「日本の父へ再び」グスタフ・フォス著

もうひとつ、大きなエピソードを取り上げるとすると、最終章の「横須賀に流れた君が代」です。
昭和24年の4月に、高松宮及び同妃殿下が、米海軍横須賀基地ご訪問の際、私が校長をしていた栄光学園にもお立ち寄りくださった。その日、私は国旗をかかげ、簡単な式典の中で、生徒に国歌を歌わせた。昭和22年には、皇居、国会議事堂、最高裁、首相官邸に、翌23年に国民の祝日に一般の国民が国旗をかかげることが許されたばかりである。学校での国旗掲揚と国歌斉唱は、戦後おそらく初めてであっただろう。実は、宮殿下は、かかげた国旗をごらんになられて、「校長先生、米海軍のデッカー大佐もいらっしゃると聞いています。こんなことをして、大丈夫ですか」とご心配下さった。「ご安心下さい。学校には国旗がなかったので、米軍基地で作ってくれたのです。米海軍が」 p.228より

いかに国の誇り、母国への愛を理解していたかが推し量られます。そして30年後デッカー氏とフォス氏が再会したとき、日本では未だに国旗掲揚や国歌斉唱を学校で出来ない、しにくい現状を聞き、デッカー氏はこういいます。

「やはり、日本の民主主義が早く大人になるようにお祈りするほかはないね」

この発言があったのが1980年秋のこと。まだまだ大人になっていないよう。

なお、このエピソードに付け加えるとすると、私が高校生の時代(1984年頃)、栄光学園では国歌掲揚反対を推進していた教師がいました。しかも栄光学園卒(笑)これが多様性ってものでしょう。

そしてイベント後のお茶での会話内容について。

石原慎太郎とは

太陽族なんでしょ

石原慎太郎は太陽族だからブロガーに「どういった種族の集まり?」と聞いていたのかも知れません。しかし、

社会に反抗していたんだ
だってほら、○○で障子に穴あけるんだから。

という勝手なイメージでしたけど、どうもこれを見る限りは本人の話ではなく、弟の模様です。

鮮烈デビュー『太陽の季節』芥川賞受賞

石原自身は『太陽の季節』について、 「裕次郎から聞かされた時、そのえげつなさに感心した話を基に据えた、若い男と女の逆説的な愛の物語であった」と書き記している。

今回は質問事項を予め紙に書いて渡し、それを事務局が「ネット、情報について」「東京の国際社会化について」といったテーマ毎に質問を紹介、それに石原慎太郎が答えるという形式をとったため、

予想以上に喋るオヤジに皆引き気味、、、

といった状況で時間切れ。「話なげーよ!」という感想がちらほらで、私も同感。話長いのであれば、もっとインフォーマルな場所、空間でやるといいと思います。まずは

新橋のSL広場で待ち合わせ

居酒屋へ繰り出す

閉店まで飲む

(「もう一軒いくぞぉ~」とベロベロになりながら付き人に車にて帰宅させられる)

といった形式で次回は是非やって欲しいと存じます。