「宮城県の松島~三陸に行ってきました(6)放射能汚染における、穢れ思想とエンガチョ問題 」の続き。
「東北に子供を連れて行くなんて、なんてことするんだ!」
という非難があったとしましょう。そしてその中で
「子供は私の子なのよ、少なくとも半分はそうでしょ!」
と言われたとしましょう。さて子供は本当に親のものなのでしょうか?
両親がいれば、父母で等しく半分こ、というのはケーキの配分でもDNA的にも正しいです。しかし私は違うと思っています。
確かに子供は私の子ですが、「私のもの」とも「少なくとも半分は自分のもの」とも考えたことがありません。なぜなら子供は神からの授かりものだからです。
赤ちゃん、幼児、子供は存在するだけで負担です。非生産的です。お金もかかりますし、なにより手間と時間がかかります。立派な大人になるまで20年かかるのです。
この間、面倒をみるのは確かに親がメインではありますが、祖父母、ひいては地域社会、そして国が全面的にバックアップしています。医療機関、医療制度に児童手当てもそうですし、保育園や幼稚園など養育の施設もそうです。さらにいえば義務教育もそのうちの一つ。つまり子供は社会全体でも育てているのです。
そのため子供は存在するだけで社会から「債務を負っているのです」。
だから健全に大人になった暁には「社会人」として、社会に貢献できる人材として負債を社会に返還しなければなりません。それは経済的なこともそうですが、何より回りの人を幸せにするということ。
よく子供を育てるのに
「人に迷惑をかけない子になりなさい」
みたいなことを言うことがあります。一見人畜無害のように見えますが、もう全然足りません、なんて自分勝手なんだろうと感じます。というのも社会からの負債をまったく返還するつもりがないからです。もらったらもらっただけで、あとは知らんぷり。
私は子供にこう言います。
「人に何かを与える子になりなさい」
何かは物質的、金銭的なことではありません。ニコっと笑って、人を楽しませる、笑顔にさせることでいいのです。赤ちゃんが愛される原点はここにあります。ニコッと笑うだけで、周囲が明るく、温かくなるのです。
だから言葉づかいもとても大切です。口から不平不満、「間違ったことではないから、いいでしょ」とばかりに悪口を言うのはもっての他。もしも言葉を発するのなら「いいところを探しなさい、褒めなさい」と。不平不満や単なる批判はココロの中にしまっておくか、プライベートな閻魔帳(デスノート)に書けばいいことです。
挨拶も大切です。特にお礼の言葉。子供は色々なことをしてもらいます。それが「当り前」になってはいけません、どんなに日常的な親切でも「有り難い」ことなのです。
指導がゆきすぎて、あまりに言葉づかいと大人ころがしがうまくなりすぎたキライもないではありませんが、それでも礼儀正しく、挨拶ができるのは基本中の基本。あとは形式だけではなく、心の底から相手を思いやることができるのを期待しています。
そしてこの行動規範は振り返って自分自身を律することにもつながります。子供は教えたことをやるのではなく、単純に親のやることをなぞるだけです。それだけに自分自身がまず、人に何かを与える人にならなければなりません。言葉づかいも重要です。そしてこの言葉を発することはブログでもそうです。
そういった点でも子供の存在に毎日感謝するばかり。神様から授かった大事な小さな命です。
この命は大切に育てて、神のもとに返さなければなりませんが、さて自分の命はどうでしょう。アラフォーとはいえ、元は赤ちゃん、子供と同じことです。自分が命を授かったこと、生きていること。これは単なる偶然ではありません。運命です。
つまり生きているのではなく、生かされているのです。
死と生を分けるもの。それはいつだってなんの合理性も、感情もありません。ただただ、そこに死と生があるだけ。津波被害で生死を分けたもの。その人がいかに立派な人であろうと、純粋無垢な子供だろうと、関係なく訪れたのが死でした。逆にそこで生き残れた人はなぜ生きているのでしょうか。
その答えはありません。なぜなら運命だからです。答えを求めていっても、何もなりません。それでも生きている、生かされている。では何をしたらいいのか。
子供が社会人となって社会に還元するように、生きている自分は自分なりのやり方で社会に貢献するしかありません。その方法は人それぞれで異なることでしょう、仕事を頑張る人もそうですし、周りの人を楽しく、明るくするというのもそのひとつですし、それは規定できません。
自分が日本人であり、日本に住んで、同じ日本語を話している人たちが苦しんでいるのを見るのはいたたまれません。ましてや苦しめているのが同じ日本人となれば、それは看過できません。自分たちが生きるために、人を犠牲にするという精神では社会は早々に破綻します。なぜなら誰もが不幸になっていくシナリオだからです。
確かに原子力発電所の事故、放射線漏洩により、未だ不安な毎日です。ただだからといって自分の子供だけ守れればいい、他はどうなってもいいということでいいはずがありません。自分の命を誰に差し出すのか、それは自分の子供だけではなく、社会の、日本の子供たちであってほしいです。
女川の生鮮市場で食事をしているときに、乳飲み子を連れたお母さんに会いました。
宮城県の松島~三陸に行ってきました(3)女川町の津波被害 ([の] のまのしわざ)食事をしていると、乳飲み子を連れたお母さんに声をかけられました。
女性「どちらから?」
私「東京からです」
女性「私は地元の者です。来て下さってありがとうございます。」
胸が熱くなりました。私にできることといえば、特上寿司を食べることと、子供にありのままの光景を見せることだけです。
実は同じ街でもう一人、乳飲み子を背中に背負って仕事をしている女性を見かけました。レジの横には消防車をバックに子供2名一緒に女性が写っている写真が貼ってあります。消防隊といえば911でもそうですし、今回の311もそうですが、一番犠牲になりやすい職業。なぜなら最後の最後まで避難誘導をし、現場にとどまっているからです。
▼東日本大震災ボランティア:思い出サルベージアルバム・オンラインプロジェクト ([の] のまのしわざ)
▼東日本大震災:宮城県亘理郡山元町「坂元駅」の変わり果てた風景 ([の] のまのしわざ)
山元町でも多くの消防隊員が犠牲となりました。
そうなると、消防車の写真の意味するものは...? 推測でしかありません、しかしおそらくはそうでしょう。
山元町では震災後、福島原発から比較的近いということで自衛隊をはじめ応援が入るのが遅れました。その後放射線を計測して問題ないことは確認されたものの、初動の遅れは致命的でした。
つまり、この乳飲み子たちを誰が守るのか、という話です。
震災から1年半たった現在はもっと明確にデータもとれ、危険の程度も分かっています。にもかかわらず穢れ思想からくるエンガチョによって、被災地の小さな命すら危険にさらしていることを、被爆をヒステリックに忌避する方々は理解するべきです。
ガンダムでいえばミハルの「うちの子が助かって、この子たちが死んでいいってこと、ないもの」ということです。ミハルはその直後、自らの命を落とすことになるわけですが。
ただなるなら、ミハルのように、自分の命をかけてでも人を助けたいと願うのです。これから先、まだまだ長い時間が必要な復興。「生かされている」という自覚をもって、他者のために為せるように。そしてその姿がいつか子供に理解してもらえるように、毎日を大切に生きていきたいと思います。