「宮城県の松島~三陸に行ってきました(2)日本三景「松島」と津波被害」の続き。
今回の旅のテーマ、被災地慰問について。
友人に聞いて女川を訪れたのですが、行ってみて息をのみました。何もない... あるのは更地となった砂利敷きの土地と横倒しになったコンクリートの建物だけ。
この海際にたどりつく前から相当な状態ではあったのですが、この光景を目の前にしたらもう何も言葉はありません。津波の高さは17m以上、高いところでは20mに達したといいます。実物大ガンダムの高さは18mですから、それをも飲み込むほどの深さ。そしてこの写真を撮影した高台、女川町地域医療センターの場所すらも冠水、建物の1Fも浸水したというのですから津波の威力を窺い知ることができます。
大きな地図で見る
ちょうど昼時にいったのですが、当然コンビニなんてあろうはずがありません。港の方に開いている食事処があるというので、行ってみました。
生鮮市場でお魚が並んでいる横が食堂になっており、そこでお寿司を頂きました。自分の出来る限りということで珍しく特上寿司です。食べて支援。
特上といっても1600円というリーズナブルなお値段。そしてお寿司は新鮮でとろける旨さ。カニがふんだんに入ったお吸い物つきです。
食事をしていると、乳飲み子を連れたお母さんに声をかけられました。
女性「どちらから?」
私「東京からです」
女性「私は地元の者です。来て下さってありがとうございます。」
胸が熱くなりました。私にできることといえば、特上寿司を食べることと、子供にありのままの光景を見せることだけです。
311から1年半たとうとしていますが、復興の道のりは長いです。更地にうずたかく積まれた瓦礫の山。5年、10年というタイムスパンで終わるものとは思えません。これはもはや我々日本人全員に課せられた苦難であり試練なのです。そうなると私たちの世代だけの問題ではなく、次世代も継続して復興支援をしていかなければなりません。そうであれば次世代の担い手、子供がそこで何があったのか、そしてどうなっているのか正しく理解する必要があります。そのためには本やTV、伝聞で知るだけでなくその場にいって、感じるのが一番だと私は考えます。
まだ小学三年生。何があったかなどすべてを理解できるはずはありません。何もなくなってしまい、あるのは瓦礫を崩して砂利となった石ころだけ。石ころの実態はコンクリート片であり、それまであったはずのコンクリート製建物はなぎ倒され、その後撤去されてしまったので、そこに人の営みがあった街の痕跡であり、証拠です。
まるで焼け野原のような光景。しかし子供が10年後、20年後に何があったのかを正しく理解する助けになることを期待しています。そのためには辛いですが、今を見るしかないのです。でも本当に辛いのは多くの大切な人を亡くした地元の人であり、復興を妨げる様々な偏見や差別です。
今回の旅行にあたっても、多くの偏見と差別を受けました。ただ行くだけでもそこまで言われるとは思えないほどのことで、住んでいる人にとっては本当にひどく傷つけることだと思います。自分には何もできませんが、せめて今の現実をこうして伝えることくらいです。
もう一つ大事なことを。ここ女川町は多少離れていますが女川原発があります。女川原発も13mの津波を受けながらも正常に自動停止。さらには堅牢な建造物であったことから、多くの被災住民を収容し、命を救ったという事実です。
女川原子力発電所 - Wikipediaなお、原子炉等規制法により女川原発敷地内には一般住民が許可なく入ることが出来ず、当然、一般住民の避難所に指定されている建物も無いが、震災発生後、広報施設の「女川原子力PRセンター[11]」に被災者が自主的に避難してきたため、敷地内の体育館等を開放して最大約360名を収容し、食事等の提供がなされている[7][12][13]。
女川原発が巨大地震と巨大津波を受けながらも無事であったことから、国際原子力機関(IAEA)の調査団が訪問、調査したほどです。
【東日本大震災】「驚くほど損傷少ない」 女川原発のIAEA調査 - MSN産経ニュース東日本大震災の揺れに襲われながら、被害が少なかった東北電力女川原発(宮城県)を訪れた国際原子力機関(IAEA)の調査団が10日、都内で記者会見し「驚くほど損傷は少なかった」との調査結果を公表した。
団長のスジット・サマダー耐震安全センター長は「地震より津波の影響が大きかったが、三つの原子炉建屋も安全システムもすべて健全に機能した」と評価。「女川で得たデータは世界中の原発の安全性向上に役立てたい」と述べた。
これも一つの事実です。
色々な伝聞がありますが、この場所にたって潮の匂い、風を受けながら、静かに考える時間をもてたこと。とても貴重な時間でした。復興支援は一過性のことではなく、これから継続的に、人ごとではなく自分のこととして捉えて今後を過ごしていかなければならないことを改めて思いました。
そして次世代へも伝えていきたいです。