買えないクリスマスプレゼントと欲しがる心

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(東京モーターショー2011:トヨタブース)

うちの子供には禁止事項が多い、というのはすでにお知らせしたとおり。

毎日ペンション生活? TV禁止、自転車禁止、ゲーム禁止の子供の日常 ([の] のまのしわざ)

時代錯誤、いや時代を先取りしているのかも知れない子供の教育方針。

・TV視聴禁止
・自転車禁止(公道のみ)
・TVゲーム禁止


(ちなみに時期がきたら徐々に解禁です)

忘れていましたが、これに

・カード禁止

も加わっています。だいたいの理由はこの話が参考になるかと。

価格詐欺 - やねうらお-よっちゃんイカを食べながら、息子語録を書き綴る

そのトレカのショップに遊戯王のとあるレアカードが売られていた。そんなにレアリティが高いカードでもなく、他のショップで3千円程度で売られているようなカードだったのだが、売値はなんと15万円である。(確かお店に売りに来たお客さんから2千円ぐらいで買い取ったカード。)

こんな馬鹿な値段をつけて誰が買うのかと普通の人なら思うだろう。そういう人は、世の中のことが全くわかっちゃいない。

私はこの15万円のカードが売れる現場を目の当たりにしたので詳しい状況を以下に記す。

そのカードを買って行ったのは小学生か幼稚園児ぐらいの男の子だった。

彼は彼のお婆ちゃん(だと思う)の手を引きながら店に入ってきて「これがほしいんだ」とそのカードを指さした。お婆ちゃんは、その値札に書かれたゼロの数を「ひい、ふう、みい、よー」と数えて「あああ」と後ろにのけぞる。

そもそもこの男の子は15万円というお金がどれほどのお金なのか全くと言っていいほど理解していないだろう。どうせこの少年は数字も99ぐらいまでしか数えられないに違いない。「ゼロはいくつあってもゼロ」ぐらいにしか思ってないのだろう。でなければ、自分のお婆ちゃんにこんな高いものをねだったりできないはずだ。

お婆ちゃんはその少年に尋ねた。「ホントにこれかい?」「ホントにこれが欲しいのかい?」「どうしてもこれが欲しいのかい?」「このあと欲しいものがあっても買ってやれないと思うけど、本当にこれでいいのかい?」何度も何度も少年に念押しした。少年はお婆ちゃんに「そうだよ、これが欲しいんだよ、どうしてもだよ、どうしてもだよ。これ以外にはボクはもう何もいらないよ」と無邪気に言った。その少年の無邪気さが私にはとても憎らしく思えた。

お婆ちゃんが決心したのか「これください」と静かに言うと店員はガラス製のショーケースの鍵をあけてそのカードを紙袋に入れてお婆ちゃんに手渡した。お婆ちゃんはひどく折れ曲がった茶封筒からしわくちゃになった1万円札を1枚ずつゆっくりと取り出した。その様子を私は後ろでじっと見ていた。

少年は宝物が手に入って歓喜していた。お婆ちゃんは死ぬ前に孫が喜ぶ顔が見れて良かったのかも知れない。お婆ちゃんは精一杯のことを孫にしてやった。店のオーナーは、2千円ぐらいで買い取ったカードが15万円で売れてほくほくだ。そこには誰も被害者は居ないように思えた。悲しんでいる人はどこにも居ない。表面上はな。

もし悲しんでいる人はどこにも居ないと本気でそう思えたなら私はどんなに幸せだっただろう。だけど、私には到底そうは考えられなかった。

そんなわけでいざクリスマスプレゼントを祖母に買ってもらおうとなると、色々な制約があってオネダリしにくいことこの上なし。

何ならいいの? と困る子供に、私は

「(もうたくさんもらっているから)別に買ってもらわなくてもいいんじゃないの?」

「遊ぶものじゃなくて、作るものにしたら」

とアドバイス。

家に唯一ある子供向け雑誌、これも家では買ってもらえないので祖父母に買ってもらったものですが、商品カタログのようなページをめくっては「これがどうかな」と気持ちを巡らせる子供に対して、「あれもこれも欲しいっていっちゃダメ!」みたいな声が。

それってどうなんでしょうね。

私が子供のころ、クリスマスシーズンになると新聞にはおもちゃ屋さんからデパートに至るまでクリスマスプレゼント用の商品をズラリとならべたチラシが入り、それを一枚一枚丁寧に、スミからスミまで眺めては気持ちを膨らませたものです。しかし実際に買ってもらえたことは、

皆無。

でも世の中に色々な面白そうなものがあって、どれもこれも欲しいと思ったわけですよ。たとえ実際に買うことができなかったとしても、そのチラシを眺めている時間だけでも楽しい気持ちになれましたよ。たとえていうならば、

「マッチ売りの少女」状態

です。

欲しいと思って買えないのと、そもそも欲しがらせない、というのは別物。確かに「今」買えない、買ってもらえないのはそれなりに理由がありますが、欲しいと思わない、思わせないとなると年月がたち買っていい状態になったときに「欲しいと思わない」ことに。

これは若者のクルマ離れにも共通します。

20歳前後ではクルマなんて高くて買えません。それは今も私が20代だった20年前も変わらないです。しかし買えないけど、欲しくてたまらない輝くクルマたちが次から次へと出てきて、切磋琢磨していた時代でした。

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走行性能はもちろん、使い勝手、快適性、すべてにおいてよりよいものを。カップホルダーの設置も含め、色々なところに気配り、細やかさが日本車たる由縁。微に入り細に入り、気配りが行き届いているところに感動したものです。

ところが時代はエコ、エコ、安全、安全。カタログをみてもワクワク・ドキドキしないクルマたちで、メーカーのラインナップは占められてしまいました。いつしかカタログもチラシもみない状態に。

そうしているといつしか、欲しいという気持ちもなくなっていくんでしょう。欲しいという気持ち、情熱がないとコストの高さしか目につきません。そうなってくるとどんなものであっても「欲しい」とはならないです。ひとことでいうと「気持ちが萎える」ということですね。

欲しいという気持ち、憧れるという気持ち、これは人をつきうごかします。つまり生きるということ。何のために生きるのか、生きるというのはどういうことなのか。ただ食べて、死ぬまでの時間を過ごすだけが生きるということなのか。考えさせられます。

結局子供いわく、「(欲しいものはOKが出ないので、欲しくもない)野球盤買ってきた」とのこと。

「欲しくないもん、買ってくるな!」という気持ちでいっぱいですが、子供の前では「そう、欲しくない(妥協する)くらいなら買わなければいいのにね」とだけ言うに留まります。

「欲しい、なんとしてでも手に入れる」という衝動、行動力はつまりハングリー精神といっていいもので、後からでは意外と身につかないもの。このままでは欲しがらない、無気力な人間の出来上がりのような。うちの子に限ってそこまではならないか…

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