佐々木俊尚著「Flat革命」:(3)言語と民族性

言語と民族性

Flat革命では「われわれ」という言葉の使い分けに言及しています。ところがここでさらにもう一歩深く考えたいのが、日本語における「私」と「われわれ」の関係と、英語での"I"と"We"の関係です。

日本語で「私」と「私たち」の区別は曖昧で、多くの場合無意識に言い換え可能です。
ところが英語において、IとWeは区別されており、使い分けを非常に明確にしなければいけません。
そのため安易に"We"を使うと、「"We"って誰だ」、といった風に聞き返される場面もあり、英語で喋るときには必ず意識して使うようにせざるを得ません。

一方英語では"You"を「あなた」と「あなたたち」の両方で使い、言葉上区別しません。もちろん前後関係から伺うことはできるのですが、ここは曖昧です。

このように言語によって特性が異なるのです。

日本はアジアの一国としてとらえたとしても、アジアの中でも異質な存在です。中国、韓国と言語は異なり、宗教観、信仰も異なります。

確かに漢字や儒教、仏法など多くのものを大陸からもたらされました。しかし輸入されたものを「そのまま」使っているものは何一つありません。ひらがなであったり、神仏習合であったり、必ず輸入されたものを一度消化、加工した上で定着させるといった歴史があります。

世界中のどこの国にも似ていないという、日本という国。

それが実は最も重要なポイントになってきます。

同時期に井沢元彦著「仏教・神道・儒教 集中講座」を読んでいて、それと重ね合わせて、再び意識させられました。その話はまた別の機会に。

ラディカルデモクラシーと革命

ラディカル (1)過激なさま。極端なさま。急進的。 「―な行動」 (2)根源的であるさま。

デモクラシー
〔democracy〕人民が権力を所有し行使するという政治原理。権力が社会全体の構成員に合法的に与えられている政治形態。ギリシャ都市国家に発し、近代市民革命により一般化した。現代では、人間の自由や平等を尊重する立場をも示す。

「Flat革命」ではインターネットによりラディカルデモクラシーが起きつつある、と指摘しています。さてこの民主主義も舶来もので、ここ150年の出来事です。そのため日本のおいてはまだ消化、加工、定着しきれていないようです。というのもそもそも

日本人が民主主義を根本的に欲していないから

ではないでしょうか。

和をもって尊しとする文化をもった日本人が、それぞれ声高に主義主張をし、権力を所有して公使するというのは実に馴染みません。列強に対抗する上で輸入したうちの一つが民主主義であって、決して「市民革命」によって主権を求めた、自発的なものではありませんし。

そのため日本人が日本人である限り、純粋な意味での民主主義や、革命とは無縁な存在ではないかという気持ちになるわけです。それが「革命なんて起きえない」といった最大の理由です。

といいつつ、次回、「革命前夜」へ続きます。