佐々木俊尚著「Flat革命」:(2)匿名文化

匿名文化

マスメディア、「Flat革命」中では毎日新聞社を例にしていますが、その新聞社とネットの匿名文化と対比させています。

マスメディアはインターネット上での言論が匿名であることを批判し、敵視しています。

しかしながら旧来マスメディアは、例えば「毎日新聞」の名前で記事をだし、記者名が表にでることは少ないです。その記事内容も取材内容からどのようなプロセスの結果、紙面を飾る記事になったかまったくディスクローズされていません。そういった意味で内部は不透明です。

いわば「毎日新聞」というハンドルネームで、仮想人格の記者が記事を書いているかのようです。

さらにいえばその不透明な点が、結果、マスメディア不振を招いています。まずコンテンツとコンテキストの分離がなされてない点。

マスメディアは、一次情報を得られるのがマスメディアの優位点であり、二次加工を主とするブロガー論壇は一次情報を独自で得られないから信憑性にかける、という主張をしています。

マスメディアが取材をした一次情報、ここではコンテンツと呼びますが、このコンテンツを編集加工、これによりコンテキストを作り上げて記事にするわけですが、従来は大新聞社がいっているんだから間違いないという、信頼関係が読者との間に成立していました。しかし昨今のモラルの低下、不祥事や、偏向報道、一貫性のない記事などで読者との信頼関係が崩壊しつつあります。そして先に触れた「プロセスが不透明」という部分が不信感を増長させているようです。

それならば純粋にコンテキストを語るブロガー論壇が説得力をもち、支持を得られたとしてもなんの不思議もありません。

一部の読者はマスメディアにはもはやコンテキストを期待しておらず、

無加工な一次情報、コンテンツの提供

のみを期待しており、コンテキストはブロガー論壇の中から選択する時代が到来したのです。

マスメディアにしても誰が書いているか、どういうプロセスで発表されたのか不透明な部分があるわけですが、一方日本国の政治でも同様です。

内閣総理大臣が自ら意思ではない、他の力によって動かされる姿を毎日見せられています。ある総理(名前は失念。橋本氏か?)の退任の辞は「辞めたくて辞めるのではない」と辞表を出すのにも関わらず、自分の意思ではないことを明らかにしています。これは誰かによって圧力をかけられている象徴的な出来事です。そしてその誰かの名前が明かされることはありません。

こうやってみてくると、実は匿名文化というのは日本社会に根ざした、特徴ではないかという気がしてきます。

歴史をひもとくと、「世間様」という匿名、そして和を尊び、村八分を恐れる文化があります。基本的にそういった匿名の中で日本社会は回っているのです。