「日本の若者は不幸じゃない」を献本いただきました、ありがとうございます。
さてこのお二人のコンビといえば!
▼[新ユニット誕生]ボーカル(写真右)とプロデューサー(中央)(イメージ)
というタイトルのお写真をとらせていただきましたが、まさかこの3年後に本が出るとは予想もしませんでしたね。そりゃそうか。
いしたにさんと喪服ちゃんの関係をおさらいすると。
(貧乏で)おなかが本当に減ったとき、この本の共著者でもあるいしたにまさきさんに電話して、ごはんを食べさせてもらったことすらありました。
喪服ちゃんの貧乏時代を陰ながら支えた足長おじさんってところでしょうか?
さて書籍の方、まだ全部読みきれてないのですけど、とても示唆に富む内容。いしたにさんは同僚だったこともあってその行動や向いている方向は共有できてますし、世代的にも近いです。しかし喪服ちゃんは一回り以上も違うし、女性だし、芸大系だしとまったく違うクラスタ。その違うクラスタに属する喪服ちゃんが見てきたこと、考えていることを知るいいチャンスです。
【クラスタとコミュニティの違い】
カンタンにいうとコミュニティは核(リーダー)があり、クラスタには核がない、という分類です。
核があるからコミュニティは求心力や自己保全力が働きやすいのですが、一方核がないクラスタは定義や領域が非常にあいまいで、時間の経過とともに変容する非常にフレキシブルなまとまり、というのが私の理解です。
例えばNiftyのフォーラムやmixiのコミュは創設者や管理人が存在するコミュニティですが、ツイッター上で #prfmをつけてつぶやくのはパフュクラ(パフュームクラスタ)と呼ばれクラスタです。別に#prfmをつけてつぶやくことを誰も強要するわけでもなく、入会するわけでもなく、誰も何も管理していません。何か問題があっても誰かが介入することもないのです。このクラスタ、Perfumeが好きな人ですが、同時にAKB48が好きな人もいるかもしれませんし、逆に毛嫌いしている人もいるかもしれませんが、それはどうでもいいことです。
ツイッターではクラスタのつぶやきをRTすることで、別のクラスタに属するfollowerに情報を流すことがよく行われています。意識してやっている人もいれば、そうでなくやっている人もいて、いずれにしろ情報がいろいろなパスを通って浸透していく様が見て取れます。
【2ちゃんユーザーはどこにいる?】
世間で日本のインターネット、インターネットユーザーといえばほとんど2ちゃん、2ちゃんユーザーと同義です。匿名文化が主流で、実名は日本では流行らない、と断言する論理の立脚点は暗黙の了解で2ちゃんがあるからではないでしょうか。インターネットが普及しはじめた90年代後半、爆発的に広がった2ちゃんのユーザーは当時の20~30代。私の周りを見渡しても2ちゃんの普及率はものすごく、現在30代、40代の2ちゃん好きは多い印象です。
ところがもう若者の2ちゃん離れが進んでいるようです。
喪服ちゃんが属する20代の若者たちがあまり2ちゃんを使わないというのです。つまり2ちゃんユーザーももはや日本のインターネット上の一部のクラスタでしか過ぎず、インターネット=2ちゃん=匿名文化という図式は一部でしか成り立ちません。
クラスタという観点でいうと、2ちゃんはとてもよくできています。明確な管理人がいるわけでもなく、スレ(掲示板)ごとにクラスタ化されていて、巨大なクラスタとして機能しているといっていいでしょう。
ただ2ちゃんで醸成された文化、匿名、厨二病、自宅警備、非リアといったネガティブな雰囲気に今の若者がついていけてないんです。ついていけない理由はいろいろありますけど、やはりそれは日本社会の変化に依るものが大きいです。バブル崩壊とインターネットの普及を背景に90年代に成長した2ちゃん世代と、失われた10年、ゆとり教育と超就職氷河期の00年代の若者。似ているように見えて、やはり社会背景が違います。
じゃあ今の若者は何にときめくんでしょう?
【終わりのない学園祭ビジネス】
「最高を求めて、終わりのない旅をするのは、きっと僕らが生きている証拠だから~」
その鍵が学園生活であり、学園祭。日本の社会はほぼほぼ学園生活の延長上にあります。いや、社会でおきることはすべて学園で起きるといいかえてもいいでしょう。本来学生は学園を卒業し、成人となり社会人となるのですが、こと日本社会においては社会全体が成熟していない、社会を構成している大人が「成熟していない」がゆえに学園生活そのままの論理・法則が適用され続けているのです。
その証拠は政治と旧来メディアをみれば一目瞭然。あそこで起きているのは学級委員が開くクラス会であり、壁新聞と同等なのです。
つまり日本社会で起きていること。それは一億総学園化。
いつから学園化したかというのは明快で、安保運動からです。
安保運動はすなわち学生運動であり、学生が社会と敵対してあらんかぎりの社会のルールを破った大きな潮流です。なぜ学生運動が生まれたか。特需など戦後復興により経済的に豊かになったのを反映して大学進学率がはねあがったものの、特需が終わり日本経済が停滞。就職難になってすることがなくなり、頭でっかちな大学生は思想に傾倒。みんながやっているからなんとなく一緒になって参加していた学生も多いと聞きます。
学生運動は体制に制圧されたことよりも、内ゲバという暴力のエスカレートにより支持を失ったことにより1970年代急速にブームが去ります。
その間学生はどうしたかというと、活動家に転じた一部を除いて素知らぬ顔して普通に社会人や政治家になっていったのです。つまり今現在の日本社会は年をとった学生たちが支配、構成しているのです。
もうひとつの学園化の象徴、それは都市化です。
都市化は近代社会の重要なキーワードであり、大学など高度な教育は都市なくしては成立しません。一番分かりやすいのが「学園都市」という言葉。東京に多くの大学が集中するのは人口分布から考えて当然ですが、学生運動が収斂したあとは都内の土地の高騰により、大学は一気に郊外へと移転をしはじめます。
郊外といっても何もない田舎に移転、学生だけが闊歩する不思議な都市が生まれます。それが学園都市。
これは何かに似ています、そうスペースコロニーです。
学生と先生しかいないスペースコロニーが東京の郊外にたくさん生まれました。スペースコロニーなので非常に人工的な街で、閉鎖的な空間です。学生なので移動手段も限られており、クルマがないと自由に社会に触れることもできません。
それでもバブル期の学生は免許をとり、クルマを入手することでその殻を突き破り、自由に行動していたのですが、バブルがはじけ就職氷河期となった00年代の学生はその自由すら手に入れられず。柔らかい殻の中で育ってきたのでしょう。行動も考え方も内向的、というよりも脳内へ向かっていくのは仕方のないことです。彼らに与えられた自由とは、インターネットと携帯、ゲームのように誰かに作られた物語の中であり、「通信」という手段だけで自由に外とつながっていけたのです。
これが学園都市の成立の過程とすると、その学園の中でのお祭りが「学園祭」です。
学園祭は村でいうところのお祭りですが、村のお祭りと大きく違う点があります。それは痛みを伴わない点。
村のお祭りは物質的、精神的、金銭的な負担を求められます。それなくして祭りは成立しません。これは社会の大原則で義務。国でいえば、税金を払う必要があるのと一緒です。
一方学園祭は催し物であり楽しみのために行うもの。楽しいから参加するし、楽しむために集まってくる。参加するもしないもそれは自由です。その純粋さがあるから普通の祭りと違って影もなく、光で満ち溢れています。
それをビジネス化したのが学園祭ビジネス。
都市はいわば毎日が「お祭り」をしているという特殊な環境といってもいいでしょう。人が集まる、という点と多くの商行為が発生するという点で毎日がお祭りです。その中でさらに「学園祭」となると、ことさら限定的になります。AKB48が女子学生的であり、学園祭的であるのはたまたまではなく、時代の要請なのです。
結果として学園祭ビジネスとはうる星やつら「ビューティフル・ドリーマー」が現実として具現化されたのです。終わらない学園祭前夜はラムちゃんの「希望」であり「夢」だったというのに、今や日本社会を包みこんで現実だというのですから、旧世代としてはびびりまくりです。
そしてその中心地は秋葉原。
秋葉原がいかに「学園的」かというと、オタク文化の中心地にシフトした00年代に遡ります。そもそも秋葉原は電気街でした。「何とか無線」という店の名前が指し示すように、無線を売っていたのです。歴史をひもとけば電気部品を売っていたのが、その後無線ブームにより無線機器が、そして家電ブームにより家電、さらにコンピュータブームがやってきてPCが、と変遷しています。
転機はPCのあとです。PCの後に売る製品が無くなっちゃったんですね。
その代わりにやってきたのが「萌え」。というのも、PCのクラスタは「萌え」「美少女」「漫画」「アニメ」といったクラスタにも属していたから。家電、PCが売れないなら売れる商品を売れとなって、駅前の「ラジオ会館」がオタクビルになってしまったのは象徴的な出来事。メイド喫茶が乱立したのもここ秋葉原。
秋葉原は複数のクラスタが混在する先進都市であり、学園都市、学園祭のステージとなったんです。
となるともう止まりません。もともと秋葉原には理系男性、技術系しか集まってこなかったのに、まさに老若男女問わず。つくばエクスプレス開業に、ヨドバシカメラ、UDXなどいわゆる「新都市」とバラックの風情が残るガード下の「旧都市」が混在する、謎のダンジョン完成です。なおも秋葉原の拡大はつづき、もはや末広町まで巨大秋葉原圏となりました。
この秋葉原で学園祭ビジネスを展開している代表例がAKB48。
そして喪服ちゃんがやっているディアステージ。
▼オタ芸打つなら秋葉原ディアステージ アキバからアイドルを発信するライブ&イベントスペース
毎日が学園祭、終わらない祭り。いつまでも学生のまま。
これは今だけの、一過性のものなのか。いいえ違います。秋葉原という街はそんな簡単な場所ではありません。日本を映す鏡の役目をもっているのです。
秋葉原で起きていること、それは日本社会であり、日本経済で起きていることそのものです。街は都市であり、都市は国なのです。秋葉原で中心となっていること、それは日本の中心です。時代を逆に遡ってみましょう。ついこないだがPCで、その前がビデオやテレビ、そしてラジオであり、無線、その前は…
秋葉原の歴史現在の秋葉原電気街のあたりは、江戸時代は下級武士の居住地域であった。「火事とケンカは江戸の華」と言われたように、当時は火事が多く、この秋葉原かいわいも江戸時代を通じて火災に悩まされていた。
1869(明治2年)の相生(あいおい)町の大火を機会に、当時の明治政府下の東京府は9000坪の火除地(ひよけち)を当地に設置し、翌1870(明治3年)年に、遠州(現在の静岡県)から火除けの秋葉大権現(あきばだいごんげん)を勧請(かんじょう)し、鎮火神社としてまつった。
当初は鎮火原と呼ばれたが、鎮火神社が秋葉神社(あきばじんじゃ:現在は台東区松が谷に移転)と改められると、「秋葉原(あきばはら・あきばっぱら)」と呼ばれるようになった。
現在、「あきば」と略されるのは、このあたりが語源となっている。
今現在の秋葉原駅の中心地はまさにこの広大な火除地、鎮火神社の境内。
神社の境内といえば、お祭りをする場所に他なりません。
戦後の日本の経済発展を支えた秋葉原という街。
戦後チルドレンで学生運動をしていた学生が支配し、成熟しない日本社会と日本国家。
その結果、秋葉(アキバ)神社境内で毎日お祭りが行われているのは時代の要請であり、日本社会の映し鏡。日本社会が経済一辺倒で経済成長こそ正義、という中でいろいろな軋轢や歪みが生じ「大火」が生まれました。今の秋葉原はその「大火」を除ける場所として機能するとしたら、とても納得がいきます。
あえて言うならば、「日本の若者」というのはもはや日本国民全員をさすと。
かの富野監督は日本の若者について、こういいました。
「昔元服したら成人になった。現代日本では成人は20才となっているが、実際にはもっと遅い」
「戦時中の学生将校は15,6歳にして死を覚悟して生きていた。おまえらにその覚悟はあるのか!」
ないです。どこにもないです。日本は首相であってもその覚悟はないです。切腹して詫びるということはありえません。メディアもそうです。責任をとらない年老いた顔をした子供たちばかりであふれています。
そうなれば「日本の若者が不幸」かどうか、という命題は、じつはそのまま「今現在、日本国民は不幸か」どうか、という命題になります。
これはもう直感的なものですが、日本国民はちっとも不幸じゃないです。
というのは「不幸」のレベル低すぎるから。
「就職できないから不幸」
そういえば私も就職できてません。この本の共著者、いしたにまさきさんもそういえば就職できてませんね。若者じゃなくても就職できてませんし、誰がどうみてもちっとも不幸そうじゃないです。
「クルマもってないから不幸」
私は趣味がクルマなのでクルマもっていますが、この本の共著者、いしたにまさきさんはつい昨年まで運転免許すらもっていませんでした。もちろん、誰がどうみても不幸そうじゃなかったです。
「彼女ができない、結婚できないから不幸」
結婚した後にやってくる不幸に比べれば、幸せかもしれません。
・・・あとは??
高度経済成長時代やバブル世代の年老いた顔をした子供たちと比較すれば、今の若い世代は物質的に不自由なのかもしれません。けれども昔はインターネットも、携帯電話も、ゲーム機もパソコンもなかったんですよ。ああなんて不幸だったんだ、ぼくたち。
・・・なんて言わないでしょう。
となるとやっぱり日本の若者は不幸じゃないんですよ。それは美味しんぼでいえば、
「こんなの、本物の不幸じゃない! 1週間後に本物の不幸を見せてやる!」
ばりの内容です。
「不幸」を売りにしている料理屋があって、偽物の「不幸」を食べさせられているだけです。いうなれば
「不幸ビジネス」
不幸ビジネスは他にも色々あって、ライフハック本とか書棚に平積みになっている、ごにょごにょ本とか、全部そっち系ですよね。たしか学校であんなにいってたじゃないですか、
「個性を活かして、自分らしく生きろ」
と。誰とも違う自分、ってことは誰とも違う人生を生きることです。昔の世代と同じことしなきゃいけないって、そりゃ幻想ってもんですよ。
だからオッサンになっている自分はある意味、今の若者に嫉妬します。だって学歴も関係ない、性別も関係ない、別に留年しようが、就職浪人しようが、就職に関係ない。好きなことをやる、自分らしく生きていいんですよ。だったら若い方が体力あるし、元気だし、リスクは低いしそっちの方が圧倒的に有利じゃないですか。
一流大学に入って、一流企業に勤めて、それ以外はドロップアウトという学歴社会は日本社会全体が否定した過去の遺物なんですから、そのチャンスを最大限に生かして起業でも独立でもして、社長をやればいいと思うんですよ。実際喪服ちゃんは実行しています。
だから「日本の若者は不幸」だという年老いた顔をした子供がいうのは、実際には羨ましさの裏返しで、「不幸」だと思わないと自分たちがミジメになってくるからじゃないですかね。つまり嫉妬。そして「不幸ビジネス」を展開するための方便。
今の社会問題は若者じゃなくって、戦後チルドレンのオヤジどもですよ。ゆとり教育を考え出して実際に施行したオヤジどもが「ゆとり脳」なのは明らかじゃないですか。
オヤジもおっさんも、若者も、年に関係なくいかに成熟していくか。それがこれからの日本の課題だと思いますよ。なんか話がずれてしまいましたけど、とにかく、
「日本の若者は不幸じゃない」
と思います。がんばれ喪服ちゃん、がんばれニッポン!
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p.s.
あとがき(p.211)に私が紹介されていてビックリ! とっても恐縮です。陰ながらいい影響を与えられて大変嬉しいです。ありがとうございました。
いしたにさんの単著、こちらもどうぞ。
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