教育勅語を評価する

最近になってグスタフ・フォス神父著の「日本の父へ再び」を読み返しています。何度読んでもまだまだその言葉の深さを消化しきれていないので、読むたびに新鮮です。

「日本の父へ再び」は日本の教育について警鐘を鳴らした名著ですが、著者であるフォス神父はキリスト教・カトリックの神父にも関わらず「教育勅語」を評価しています。

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ソニー創業者にしてテープレコーダーの発明開発で有名な井深大も教育勅語を評価しています。

[の] のまのしわざ: 戦後教育の最大の失敗は教育勅語を捨てたこと

その最たる例が「戦後教育の最大の失敗は、教育勅語を葬ってしまったこと」という衝撃的な章です。

去年九州は熊本県、人吉市へ遊びにいったとき訪れた「青井阿蘇神社」には教育勅語の碑をたてて、こう評しています。

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以下、碑より抜粋。
(ここから)

教育勅語碑建立の経緯

教育についての社会的関心が高まっている昨今、世論には戦後半世紀を経過した現在にあっても、かつてわが国の教育の指針とされた教育勅語を極端な国家主義と結びつけ、否定する者が少なくありません。

しかし教育の現状を鑑みるとき、道徳教育を軽視してきた現代の風潮は、本来人類が世代を超えて共有すべき価値観であり普遍の生き方ともいえる

「お父さん・お母さんには親孝行をしましょう」
「友達とは仲よくし、そして信じあいましょう」

といった美徳をも混乱させてしまったのではないかと痛感いたします。

(ここまで)

フォス神父が評価したのはまさしくこの「本来人類が世代を超えて共有すべき価値観であり普遍の生き方」の部分で、それは信仰・宗教を超えて普遍であるからです。

長い人類の歴史を紐解いたとき、宗教の歴史など人類の歴史の一部にしか過ぎず、宗教が発生する以前から普遍の価値があります。宗教はそれを裏付ける役目を持っているだけです。明治の人たちは高い知育教育に宗教の力がいることを海外に学び、それに倣おうとしました。しかし、当時の日本の宗教情勢を考えると弱体化した仏教信仰、解禁されてまもないキリスト教は候補になるはずもなく、当然の帰結として皇室中心・儒教をベースに教育勅語の徳目を作ったわけです。

フォス神父にしても、井深大にしても、そしてこの記念碑にしても共通していることはこの人類にとって普遍の価値観を評価している点です。そして石原慎太郎も同じように教育勅語を評価し、現在の公立校の退廃は普遍の価値観を持っていない点にあると指摘しています。

[の] のまのしわざ: 石原慎太郎とブロガーが議論

公立教育の水準が下がっているのではないか?  私立は価値基準があるところが多い  公立は、現在そういったものがない、希薄になっている

カトリック神父であるフォス神父、仏教信者の石原慎太郎、そして非科学的な宗教と対極にある科学者、井深大が同じ意見というのは非常に面白い一致といえるでしょう。