靖国神社焼き払い計画

政治ネタということで、夏休みの宿題状態で読んでた本の中に小林よしのり著「靖国論」があったのですが、真剣に読めば読むほど涙なしでは読めない本でした。

新ゴーマニズム宣言SPECIAL靖國論
小林 よしのり

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8月前後は参拝問題が取り沙汰されてましたけど8/15を越え、衆議院解散したらまったくそんなことおくびにも出てきませんね。また来年のイベントということでしょうか。

wikipediaはどのように書いてあるんだろうと調べてみたところ興味深いのがありました。

靖国神社 - Wikipedia

焼き払い計画を止めさせたカトリック神父の言葉

日本敗戦後も靖国神社が存続したことについて、以下のような逸話が語られている。

1945年、GHQは靖国神社を焼き払うことを計画していた。しかし賛否両論が巻き起こり決めかねていた。そこでローマ教皇庁代表であり上智大学学長でもあったブルーノ・ビッテル(Bruno Bitter 英語読みでビッターとなっている場合あり)神父に意見を求めることになった。

ビッテル神父は「いかなる国家も、その国家のために死んだ人びとに対して、敬意をはらう権利と義務があるといえる。それは、戦勝国か、敗戦国かを問わず、平等の真理でなければならない」とし、「靖国神社を焼却する事は、米軍の占領政策と相容れない犯罪行為である」とまで言ったという。そして次の言葉で締めくくった。

「靖国神社が国家神道の中枢で、誤った国家主義の根源であるというなら、排すべきは国家神道という制度であり、 靖国神社ではない。我々は、信仰の自由が完全に認められ、神道・仏教・キリスト教・ユダヤ教など、いかなる宗教を信仰するものであろうと、国家のために死んだものは、すべて靖国神社にその霊をまつられるようにすることを、進言するものである」

この進言により靖国神社は焼き払いを免れた、という。

日本人が混同しているのが、「宗教」と「信仰」が別であること。新聞でもいつでもセットになっていてその違いに気付かされることはありません。しかしよく考えてみてください。

「オレ、無宗教だから」

といっても結婚式は教会であげ、クリスマスを祝い、お盆休みで帰省してお彼岸には墓参り。子供が産まれればお宮参り・・・これは無宗教ではなく、多宗教です。正しく言うのなら「無信仰」ということでしょう。

国家と信仰は切り離せません。アメリカでは証言や就任式などの時に聖書に手をのせて真実を誓いますが、これはキリスト教の場合であり、別にユダヤ教でもイスラム教でも構いません。信仰と宗教は別で、多宗教を認めているケースです。

「我々は、信仰の自由が完全に認められ、神道・仏教・キリスト教・ユダヤ教など、いかなる宗教を信仰するものであろうと、国家のために死んだものは、すべて靖国神社にその霊をまつられるようにすることを、進言するものである」

異教である神道を含め他の宗教を信仰することを認めているのが立派ですね。しかしこれは他の宗教を認めているわけではなく、実際には信仰を認めているだけなのです。

信仰の自由とは、いかなる宗教でも選択する自由があるということです。しかし誤解されやすいのは、信仰の自由とは「信仰する、しない」の選択の自由のことだという点です。そこには目的となる「宗教」が出てきません。その結果が先だっての「オレ、無宗教だから」の多宗教、いや混宗教の結果を招いたといえます。いずれの宗教も信仰してないので、形式だけの中身なしのものに過ぎません。

ところが諸外国からみればそうは行きません。なぜなら諸外国では必ず信仰があって、その宗教の形式にのっとっているわけです。日本人は混宗教で、中身なしの形式だけと知らない外国人にとっては、形式にのっとった時点で信仰しているものと判断されてしまいます。もしそれが形式だけと知ったら日本人の行為は非常識で罰当たりものとなって軽蔑されてしまっても当然です。

まあそれくらい信仰に対する認識が国内外で異なっているのが、問題の根幹にある気がします。



「靖国神社が国家神道の中枢で、誤った国家主義の根源であるというなら、排すべきは国家神道という制度であり、 靖国神社ではない。」

この言葉に沿ったのか知りませんが、靖国は焼かれることなく国家と神道の分離が図られて、天皇制は形骸化(無効化)されたわけです。こうして靖国神社が今もあり亡くなった方の霊を弔うことが出来るのは、連合軍のGHQのおかげということができるでしょう。因果なものです。