子供の成長をみて思うこと

約1年10ヶ月子供の成長をみて思うことをつらつらと。

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世の中にはいくつも育児本がある。ただ実際に自分が我が子の成長をみて思うのは、子供という存在を「子育て」というアプローチで子供を理解し、育てることに疑問を感じる。

育児本のもっとも違和感を感じるのは、数少ない経験を一般化して適用しようとすることだ。特に学者でもなく、単純に我が子を育てた経験から記述するケースに多い。つまり我が子を育てたときに起きた出来事や、経験をあたかも他の親子にも適用できることを前提に事例を展開する。少子化の現在にあって、たかだか1人か2人の子供を育てることしか経験できない現代にあっては、それが他の子供にあてはまるかははなはだ疑問である、特に親がちょっとかわっている場合は。

ではプロである学者や、育児に関わる職業の人の場合はどうだろう。これがサンプル数は非常に多く、人生の中で数百人、数千人の子供を観察することが可能だ。サンプル数としては平均を出すにあたうだけの経験となるが、いかんせん広く浅くとなってしまう。子供ひとりひとりの特異性をつぶさに観察できるかというとそれは前出の我が子を育てた親の経験に譲る。

そして両者に共通していえるのは、重力や時間といった物理学的観点が欠如している点である。赤ん坊は羊水の中で真っ暗であろう世界に生を受ける。そして出産と同時に、明るく、重力が働く世界に放り出されてしまう。何がなんだかわからないというのが彼の感情であろう。成長につれて変化していくのが以下の事柄である。


  1. 物体の認知、理解

    • 距離、立体の理解
    • 物体の中の区別
    • 自分と他者の区別

  2. 重力の概念の理解
  3. 音の理解

    • 音と言語と区別
    • 言語の理解

  4. 時間の概念の理解

まず赤ん坊は生まれて見る世界は間違いなく2次元である。つまり平面。色がついた映像が目の前に広がっているだけである。それが移動しているわけである。まだ人とか景色とか物体とか理解不可能である。

繰り返し見ているうちに、平面の中で顔などを理解可能となってくる。まだこの時点では彼は自分の手が手であることを知らない。自者が何であるかまだ判らないからだ。そのうちに手が自分の意思で制御可能なことを理解し、目のフィードバックを得ながら制御可能になってくる。

手がかなり自由に動かせるようになったとしてもまだ大きな難関がある。それが重力である。重力に抗えるほどまだ彼の筋力は備わってない。地べたに這いずったままである。子供が親のだっこを好むのは自力では大きく視点を変えることが出来ないせいである。

視点をかえることでだんだんと距離、立体の理解が可能となってくる。こうなってくると見える世界は従来の平面の世界から3次元の奥行きのある立体世界へと変わってくる。

筋力がつくにつれ自力で移動が可能となってくる。すると体をあちこちぶつけることで、自者がどこからどこまでかが理解可能となる。同時に手、足が自分の制御下にあることを理解できる。

鏡の有無により自者、他者の区別が促進されるかどうかは判らないが、物体のうち動物(親や他の子供)と静物(おもちゃや家具などの物体)との理解が可能となってくる。

もっとも劇的なのは自力歩行が可能となる時期である。重力という存在に抗い、自力で立つ移動することにより今までよりもより多くの情報が入るようになる。これ以降転ぶという、重力のなしえる技を知る。

歩くことができるようになってからは、ボール遊びをする。ボールは投げると放物線を描く。なぜ描くのかは判らないが、ボールは必ず地面へと落ちる。そして弾む。こういった経験を通してより重力の大きな存在を感じる。子供が風船を喜ぶのは、知る限りそれが唯一重力の法則に抗う物体であるからだ。鳥や飛行機に惹かれるのも同様。そしてなぜ飛べるかはわからないけれども、重力の法則に縛られた自分とは違う存在であることを感じる。

音が音だけではなく、言葉があるというのを知る。音に音楽というものがあるのを知る。そう知っていったとしても理解はまだ出来ない。しかし反復を重ねる毎に理解をしていく。そうして言語を理解可能となる。

言語は喋って、相手に理解してもらえてはじめてその効力を発揮する。基本的には聞いた音をそのまま口と喉を使って同じ音を出す訓練からはじめる。子供の口の筋力は未発達のため、日本語でいえば50音すべてを発音できるようになるには時間がかかる。また聞かない音は発音不可能である。それは日本人がthやr/l, f/vの発音が出来ない理由である。一方で親の喋る言語を理解するのは意外と早い。しかしこのとき日本語であるのか外国語であるのかの区別なんて当然ない。親が両方の言葉を喋れば、それが判るようになり、まねして喋れるようになってしまうのは時間の問題。

そしてもっとも大きな物理学的な概念は時間である。子供は時間の概念がない。時間軸がないので言語で「まだ」とか、「後で」とかいっても理解できない。これは言葉が判らないのではなく、概念がわからないからだ。まだ今しか彼には存在しない。地球が太陽の廻りを回っていて、昼と夜があり、一日24時間であることを理解するにはまだ当面先となる。そもそもその概念も近代社会で一般化した概念である。原始時代に「じゃあ来年ね」といっても理解可能かどうか。

子供のそうやって物理法則の中で生きている。物理法則を体験し、理解することで成長を重ねているといっても過言ではない。子供が水(液体)や砂(粒子)に異常に反応するのは、それが身近な物体の中で特異な存在であるからだ。物体は形が決まっているのに、粒子は形を自由自在に変化させ、液体はそれ自身では形状を保てない。それが故に公園には砂場があって砂をいじり、お風呂に入っては水遊びが大好きなのだ。

そんな状況下にあって、海岸にいくなど子供は大興奮だ。なにせ見渡す限り不定形物の液体と粒子なのだ。こんなの初めての経験である。波という寄せては返す現象に最初は畏れるものの、慣れればなんてことはない。まだ彼には溺れるかもしれないという恐怖心はないし、そもそも死という概念すらない。不愉快な感じでいえば、せいぜい痛いとかお腹へったとか、眠いくらいだろう。

それが子供であり、子供の成長は物理法則の理解とともにある。万有引力の法則が発見されようがされまいと、地球上で生を受けた限り、重力に縛られるのが人間の宿命である。

一方で社会の理解も同時に進行している。所有の概念などまだない。自分のもの、相手のものという区別がないので、自分のものにしたい欲求も当然ない。今あるとすれば手に持っているか、持ってないか。持ってなくとも自分のものであり、人が持たないことを保証するための所有の概念はもっと知恵がついてからなのだろう。逆に知恵がつく必要があるのかなとも感じてしまう。所有欲は本来欲ではなくて、大人たちが作った社会の慣習に過ぎない恐れもある。

今後も「子育て」の名のもとに子供の観察を続け、子供の成長を通じてこの社会とは何なのかが発見できることだろう。ほんと、子供って面白い。