宮城県の松島~三陸に行ってきました(5)大川小学校の津波被害

宮城県の松島~三陸に行ってきました(4)雄勝町の津波被害と遠藤すずり館 」の続き。

雄勝町から山間部を抜けて向かった先は北上川の河口付近に位置する大川小学校。

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(大川小学校)

ここ大川小学校は生徒・教職員含め多くの犠牲者を出した場所です。

石巻市立大川小学校 - Wikipedia

2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)に伴う津波が地震発生後およそ50分経った15時36分頃[1]、三陸海岸・追波湾の湾奥にある新北上川(追波川)河口から約5kmの距離にある当校を襲い[2]、校庭に避難していた児童108名中70名が死亡、4名が行方不明(2012年1月23日現在)[3][4][5][6]、教職員13名中、校内にいた11名のうち9名が死亡、1名が行方不明(2011年4月9日現在)となった[7][8]。スクールバスの運転手も死亡している[9]。

▼証言をまとめた詳細⇒大川小学校を襲った津波の悲劇・石巻

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(校舎裏の山。フェンスがなぎ倒されたまま。手前は学校施設の残骸)

ここでの惨劇は今回の津波の象徴的な出来事で、特に犠牲になったのが幼い小学生だったことがとても痛々しいです。

311の時、うちの子供はちょうど小学1年生。帰宅途中バスに乗っていたところ地震にあい、バスは緊急運行停止。国分寺駅に向かったところ、JRも運行停止。ごったがえす駅構内から避難しろと指定された公園を右往左往、さ迷って半べそかいてたところを親切な人に声をかけられ、自宅に連絡をいれてもらい学校に再び戻って母親の迎えをまったと言うことです。

なぜこの小学校に立ち寄ったかというと、犠牲になった子と、助かった子の間に何の違いがあったかということ。言い換えるとなぜ津波で亡くなった小学生がいて、うちの子はなぜ助かったのかと。つまり「死」は誰に訪れるのかということです。

我々は理由を求めます。「なぜ」に対しての答えを求めます。答えの先には「責任」があります。責任が分かれば「追及」しはじめます。追及した先には何があるのでしょう。

分かっているのは、何をどうやっても失われた命は戻ってこないということです。これを人は「運命」と言います。まさに「運」が生死を分けたのです。

もちろんあの時、こうすれば、ああすれば、誰かがこうしていれば、というタラレバはたくさんあることでしょう。

私は大学生時代、交通事故にあいました。杉並の街中で軽自動車と正面衝突、大腿骨骨折の重傷です。どちらも駐車車両を避けようと中央に出てきたところ、出会いがしらにぶつかったのです。手術、2か月の入院生活を余儀なくされ、結果大学を留年です。

痛いのもそうですが、なんでこんな目に合うのか、合わなければならないのか。ほんの数秒違っていたらぶつからなかったはず、駐車車両がなければ、アクセルをほんのすこし緩めていれば、そんなことばかり考えていました。すべての出来事が、条件がそろわなければこの事故は起きなかったのです。逆に考えれば、すべての偶然が見事に重なって起きた事故でした。

留年の結果、就職活動にも影響がありました。時代はちょうどバブル景気がはじけとび、その1年で就職氷河期に転じたのでした。

ただもうひとつの見方もあります。それはよく死なずにすんだ、というものです。もしかしたら当たり所が悪く、即死していた可能性だってあります。相手が軽自動車でなく、トラックであったなら。踏みつぶされていたら・・・そうなったら今この世に存在しません。

そんなことを2か月の入院生活の毎日考えて出た結論は、「運命」です。

もう何も説明がつかないとき、人はそれを「運命」というのだと思いました。

確かに人はずいぶんと色々なことができます。しかし万能の神ではありません。神ではない以上、受け入れたくない運命を受け入れなければならない時があるのです。

うちの子はおかげさまで心身ともに健康で今も生きています。しかし私は常に、いつなんどき「死」の一報が舞い込んでもおかしくない、と考えています。それは自分の事故がそうでしたし、弟が交通事故で意識不明の重体の報のように、いつなんどき突然訪れるかは分かりません。死を見つめることで、平凡な毎日を改めて生きているという喜びを噛みしめることになるのです。

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今できることといえば、祈ることだけです。

祈ったって何ができるわけでも、何が変わるわけでもありません。ただ犠牲になった方へ哀悼の意を表し、今生きていることに感謝して。