宮城県の松島~三陸に行ってきました(4)雄勝町の津波被害と遠藤すずり館

宮城県の松島~三陸に行ってきました(3)女川町の津波被害」の続き。

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雄勝町は硯(すずり)の里。硯に使われる石を産出するため、それを加工して出荷するというのが地場産業です。また水産業も活発でしたが、津波被害で全部流されてしまいました。

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(雄勝硯伝統産業会館)

津波の高さは硯(すずり)館と呼ばれる5階建建物の4階まで及び、防潮堤は引き波により無残にも破壊され、硯職人が作っていた硯もすべて流されてしまったとのこと。

1月6日 瓦礫の街で守り続ける伝統工芸品・雄勝硯 震災日誌 in 仙台  /ウェブリブログ

3月11日午後2時46分、遠藤さんは工房兼店舗で激しい揺れにあった。消防団員の務めとして、近くの水門2か所を閉めた。すぐ裏手の杉林に逃げた。間もなく巨大な津波が街をのみ込んだ。

海沿いに走る国道に面した工房兼店舗は跡かたもなかった。その裏手、やや小高い場所にあった2階建ての実家も流された。今の"小屋"はこの実家の跡地に作った。1週間ほどは、消防団員として地区内で遺体の捜索にあたった。30体ほど見つけたという。遺体搬送もしたが、収容するのは警察の仕事。遺体を発見しては目印の赤い旗を立ててまわった。

消防団の活動は本来は救助活動。しかし、雄勝の中心街は海がすぐ目の前に迫る、さして広くない土地に家が密集していた。家はほとんどが海に流された。他の地域と違って、家の2階などでかろうじて生き延びるという可能性はほとんどなかった。当初から遺体の捜索に追われたという。
例外が1件あった。3月12日の昼、海べりに引っかかっていた民家の2階からかすかに人の声がする。消防団が向かった。めちゃめちゃに壊れた2階で、年配の女性が寒さに震えながら生存していた。地獄絵図のような中、ほっと暖かいものを感じた瞬間だという。

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硯館エントランスの2Fになぜか不自然に残るトラック。雄勝町のコンクリート製建物は他にもありましたが、すべて水に飲まれ、まさに廃墟と化していました。

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ここ雄勝町は山間にあり、道路は寸断され防災無線も消防無線も途絶え、もちろん携帯電話も通じません。震災後周囲から完全に孤立。連絡もできない状態で食事もままならぬ状態だったそうです。打ち上げられた養殖ほたてをひろい集め、流された冷蔵庫をあけて食糧を調達しなんとか飢えを凌いだそう。

復興の道のりもまだ遠いです。

津波被害が甚大だったため、低地には住居を建てることができず、高所にしか建てられないのだが土地が狭く、以前のように全員が住めるわけではないと。そうでなくとも見ての通り町はほぼ壊滅に近い状態で、漁業を営む人はポツポツと帰ってきているものの、多くの人は都市へ避難したまま帰ってこれないのではないか、といわれています。

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そんな中伝統工芸品である硯を今も作り続けているところがあるのです。それがここ「すずり館」。

1月6日 瓦礫の街で守り続ける伝統工芸品・雄勝硯 震災日誌 in 仙台  /ウェブリブログ

ブルドーザーを動かす作業員を除けば人の姿がない瓦礫の街に「営業中」の旗と「すずり館」の小さな看板がある。遠藤さんの工房、兼店舗だ。工房と言っても、6畳ほどの組み立て式の物置に、仮設住宅用の廃材を利用して玄関を取り付けただけのもの。小屋と言った方がいい。寒風が吹きすさぶ中、まきストーブで暖をとりながら硯を彫っていた。

営業中の旗が燦然とはためくものの、建物はみてのとおり倉庫を改造したもの。これも流された倉庫や仮設住宅で使っていた廃材を譲ってもらって作った仮ぐらしです。

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この場所はもともと住居があった庭先だったのですが、住居は流され、この場所も低地であるとして新しい住居は建てられないということです。街には何も残らず、今もガレキがうずたかく積み上げられたままです。

すずり職人の遠藤さんは流された硯をボランティアと一緒に見つけ、傷がついてないものを再び作品として並べました。その中には先代・遠藤盛行さんが遺した作品も含まれます。

1月6日 その2  瓦礫の街で守る雄勝硯~半島の山中の桃源郷、そして街が消える不安 震災日誌 in 仙台  /ウェブリブログ

故遠藤盛行さん、4代目の弘行さんはともに雄勝硯生産販売組合に入っていない。弘行さんの説明。父、盛行さんは原料の雄勝石の採掘を手掛けていた。人生の後半で硯作りの世界の入った。昭和30年代のことだった。当時は学校教育に習字が取り入れられ、学童向けの硯が飛ぶように売れた。販売点数は年間200万個とも言われた。雄勝はこの7割を生産していた。

いきおい原料は安価で加工しやすい中国産などに傾いていった。地元の良質の原石を見続けてきた遠藤盛行さんは、そうした趨勢に批判的だった。組合に加入することはなかった。跡を継いだ弘行さんも同じように独自に営業を続けた。勿論、組合と敵対している訳ではない。

組合に属する工人たちの作品は雄勝の中心市街地でもランドマークだった、雄勝硯伝統産業会館に展示されていた。会館は壊滅的な被害。展示品はほとんどが流された。

流されたのは硯だけではありません。東京駅の復元に使われる予定であった石を薄く板状にした「スレート」も納入前に倉庫で保管されているところを流されました。

asahi.com(朝日新聞社):東京駅の屋根材も津波被害 スレート、石巻で補修中に - 東日本大震災

 東京駅は2003年に国の重要文化財に指定された。現在は、戦前のドーム形の建物に復元する工事が、12年の完成を目指して進んでいるが、震災の影響を受けて、遅れが出る可能性もあるという。

 この中で、スレートの補修を任されたのが、地元・石巻市北上町の「熊谷産業」だった。

 同社は09年5月以降、縦30センチ、横18センチのスレート計約20万枚を駅舎から外して石巻に持ち帰った。1枚ずつ割れ目などを調べ、使用可能な約13万枚の汚れをたわしで落とした。作業が終わったものから納品し、今年7月に残りの約6万5千枚を東京に持って行く予定だった。

 しかし、3月11日の津波で保管倉庫が流され、壊滅的な被害を受けた。熊谷秋雄社長(46)は社員と家族約10人で、2週間かけて4万5千枚を集めた。「日本を代表する建物。自分たちの片づけを後回しにしてやった」

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宮城・石巻市雄勝町(おがつちょう)は、主に屋根材に使われているスレート瓦の名産地で知られてきた。
スレートは、薄板状に割れやすくなった天然の岩石を加工したもの。
スレート瓦を扱う四倉 年思也さん(64)の「四倉製瓦工業所」は、津波で工場の機械を失った。
四倉さんは、事務所で「このへん(胸の高さ)まで水入ってましたからね。書類がもう全部本当だめです。かろうじて、東京駅の書類が」と語った。
奇跡的に助かった「東京駅舎復原工事」の設計図。
四倉さんの会社のスレート瓦は、東京駅舎の復原工事に使われることになっていた。
しかし、出荷目前だった2万5,000枚の瓦は、倉庫が海岸近くにあったため、その多くが流された。
四倉さんは「ご覧の通り、建物から何からもう崩壊した。今まで、みんなで東京駅に出そうと頑張ったのが...」と語った。

雄勝のスレート瓦が絶望視される中、四倉さんたちが真っ先に始めたのは、1枚1枚拾い集めるという作業だった。
使える瓦かどうかを見極めるのが、たたいた音。
職人は「(カンカンっていう甲高い音がするのが大丈夫?)その石によって音は多少違うんですけどね。割れてる音は、確実に違うんで」と話した。
使えない瓦からは濁った音が鳴り、使える瓦からは甲高い音がする。
瓦の泥も丁寧に洗い流し、何とか1万5,000枚を確保することができた。

石巻市雄勝町の「復興のシンボル」を東京へ出荷する。
雄勝町民たちの思いも特別だった。
雄勝町の人は「家はなくても、ちょっとしたもの、残ったもので、ほかに使っていただけるんであれば。こういうの(津波)を忘れられないでいられるのかなって」と語った。

四倉さんは5月10日、東京駅を訪れ、「2億5,000万年前の石が、1,000年に1度の津波に負けてたまるかと」と語った。
工事までに納品可能ということもわかり、無事、採用が確認された。
JR東日本建設工事部の小澤成昭課長は「奇跡的にがれきの中に、雄勝産のスレートが残っていたのを、われわれも実際、自分たちの目で見まして。基本的にその時点で、何とかしてこれを使いたいと。(工事担当者は)あんなに残ってるっていうのは、夢にも思わないと。残った(使える)石は全部使用しますと」と語った。
四倉さんは「もう何かね、重圧がばっと下りたね」と語った。

大津波が引き、すべてが流されたと思った工場のがれき跡から... / 西日本新聞

▼工場経営者の四倉年思也(よつくらとしなり)さんらは水道が止まる中、井戸水をくんでは泥にまみれたスレートを一枚一枚洗い続けた。街中は壊滅状態。四倉さんも4日間自宅に閉じこめられた。疲労困憊(こんぱい)の作業を支えたのは、東北の小さな町の産物と技術が日本の表玄関を飾るという、大きな誇りだった

▼洗浄しよみがえった物のうち2万枚が、東京駅に送られた。戦災で焼けたドーム屋根を含め、創建当時の姿を復元する工事はほぼ終了。流失を免れたスレートは、皇居に面した中央玄関の壁材になった

▼現在、雄勝石スレートは生産停止中だ。地区では復興の願いを込め、建材として使えなかったスレート約100枚に子どもたちが希望の言葉や絵をかいた

▼これも東京駅構内で壁画として生まれ変わる。「津波に耐えた奇跡の石」。10月1日の完工を前に、子どもたちを招き除幕式がある。

雄勝硯は8月26日(日)まで開催されるテマヒマ展でも展示されています。

企画展 「テマヒマ展 〈東北の食と住〉」

お時間がある方はぜひどうぞ。

港は静かでとても綺麗な海の雄勝町。しかしひとたび1000年の1度の津波で陸のものはすべてなくなってしまいました。うず高く積まれたガレキ。手つかずの被災コンクリート製建物。そして壊滅的な打撃を受けた地場産業。しかしここに人の営みはあり、伝統工芸があるのです。雄勝硯の原料である石は国内ではここでしかとれません。いくら外国に似たような石があったとしても、東京駅の屋根を支えるのは日本製であるべきです。それが民族の誇りというものです。

今回の「すずり館」は子供が旗をみつけ、「寄ろうよ!」と言ってくれたおかげでUターンして寄ることができました。遠藤さんの貴重なお話がきけ、子供に感謝です。

硯の産地は今  :日本経済新聞