巨石・石垣! 天下一の大阪城と徳川大坂城

この夏の帰省は海ばかり、まったく石垣がみれてない! と「石垣不足」による禁断症状で思わず新幹線と途中下車してよってきましたよ、大阪城

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大坂城 - Wikipedia

大坂城・大阪城(おおさかじょう[1])は、摂津国東成郡大坂(現在の大阪市中央区の大阪城公園)にあった安土桃山時代から江戸時代の城である。別称は金城あるいは錦城で、大坂が近代に大阪と表記するように改まったため、現在は「大阪城」と表記することが多い。

大阪城天守閣【トップページ】

備中松江城や松山城なども候補に挙がったのですが、いかんせん新幹線のルートから遠く。大阪城も新大阪駅から意外と遠いのですが、それでも日本最大級のお城、いや当時でいえば世界最大級の城塞にとても興味があり大阪城に決定です。

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(大手門)

大手門からのアプローチ。門の横も十分巨石なんですが、その奥にあるのがもうなにがなにやら。

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一枚岩です。通常石垣に使われる石は奥行きが数十センチありますが、この巨石は運びやすくするため薄く6cm~10cmほどにスライス。なのでそんなに厚くないんですが、それでも十分な重さと大きさだったんでしょうね。

いきなりこんな巨石でお迎えされますが、これだけじゃありません。それぞれ全部がでかい、綺麗、石垣が高い。

豊臣家、すげえ、と思ったのですが、よくよく調べるとこれは全部徳川家のしわざ。

大坂城 - Wikipedia

落城に際して、灰燼に帰した大坂城は初め家康の外孫松平忠明に与えられたが、1619年(元和5年)に幕府直轄領(天領)に編入された。翌1620年(元和5年)から、2代将軍徳川秀忠によって大坂城の再建が始められ、3期にわたる工事を経て1629年(寛永6年)に完成した。

徳川氏は大坂城を再建するにあたり、豊臣大坂城の跡を破却して盛り土した上に、縄張を変更して築城したため、現在大坂城址で見ることができる遺構や二重の堀、石垣は、みな江戸時代の徳川大坂城のものである。大坂の陣で埋め立てられた惣堀を含む豊臣大坂城の遺構は、大阪城公園や周辺のビルや道路の地下に埋没したままで、発掘も部分的にしか行なわれていない。

あまり城としてみなされない皇居、「江戸城」ですが、江戸城も実はいくつか同じような石垣の作りをしていて共通点が見られます。徳川家による江戸時代の「最新石垣テクノロジー」を使った石垣は特徴があり、石が大きく表面が平滑です。

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(江戸城:天守台)
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(江戸城:馬場先門)
現在過去未来
(江戸城:中之門)

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(大阪城:天守)

角っこ(隅部)が見事な算木積み。いわゆるジェンガ積みです。

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(大阪城:天守近くの山里口出枡形)

名城としられ、石垣が有名な熊本城ですが、熊本城の石の使い方とまた異なるんですね。

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(熊本城:二様の石垣)

石垣進化論:熊本城は加藤清正が作り、細川が磨き上げた ([の] のまのしわざ)

これは何を意味するかというと、戦国時代(安土、桃山時代)から江戸時代初期にかけて、たった数十年の短い間に石垣テクノロジーが急激に進化しているということです。

もちろん天下統一後で予算のかけかたが違う、というのもあります。なにせ豊臣家から徳川時代、日本は「金」の宝庫、金の最大の輸出国となっていたためそりゃ「でかい石もってこーーい!」ってなもんです。

一方豊臣秀吉がまだ羽柴だった頃、姫路城で築城の際は石が足りなくて、石を供出させたところ老婆が石臼を出したという逸話があるほど、石不足でした。

姫路城 - Wikipedia

姥が石(うばがいし)

羽柴秀吉が姫山に3層の天守を築いていたとき、城の石垣として使う石集めに苦労していた。城下で焼き餅を売っていた貧しい老婆がこれを知ると、石臼を秀吉に差し出した。秀吉は老婆の志に大変喜んだ。この話はたちまち評判となり、人々が競って石を寄進したという。実際に乾小天守北側の石垣には石臼が見られる。他にも古代の石棺を石垣として使用している。石垣に使えそうな石をまさしくかき集めた名残である。

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(姫路城:連立式天守)

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(姫路城)

[の] のまのしわざ: 城(castle) アーカイブ

技術の進化は50年がMAX、とよく言われます。たとえば蒸気機関もそうですし、内燃機関もそろそろ。50年すると一巡して技術のS字カーブが飽和して、新しいイノベーションが生まれます。

石垣テクノロジーも戦国時代に花開き、朝鮮出兵により革新的・飛躍的進化をとげたあと、この大阪城の普請によりそのピークを迎えたのでしょう。その名残が戦略的に意味のない巨石であり、天下泰平の世の中では天守閣が焼け落ちてもそのままにしたということからも分かります。

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(蛸石)

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(京橋枡形、肥後石。実際には徳川普請により、備前大阪藩主池田忠雄によるもの)


その200年後、石橋(眼鏡橋)が現れるまで、石垣はロストテクノロジー化するのです。

[の] のまのしわざ: 石橋・眼鏡橋(meganebashi) アーカイブ

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(霊台橋)
美里(旧砥用町)の石橋:日本一の霊台橋 ([の] のまのしわざ)

そんな石垣技術の最高峰、大阪城は全国各地から石が集められたことがよく知られています。いわば大阪万国石垣博覧会。

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石垣には刻印がつき、どこの藩かよくわかります。

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(肥後熊本)

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ということで、石垣ファンなら見逃せない大阪城でした。

え、天守閣はどうしたって? いや復元天守にはあんまり興味ないもので…城は名より実です。

実際問題広すぎて、半分ほどしか見て回れませんでした。縄張りがとても素晴らしく、難攻不落だったのもうなづけます。だって冬の陣で落ちないもんだから外堀埋めさせましたからね。20万人が戦ったという夏の陣、日本最大級の内戦(?)です。それに比べれば関ヶ原すら大した数ではありません。

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(本丸、堀)

豊臣家のお城として名高い大阪城ですが、今見られる大阪城は徳川家の居城としてのもの。歴史の大きな変革の場として、存在感に圧倒されました。また来たいですね。

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そしてやはり江戸城の石垣をもっと掘り下げたい! まだまだ何かあるはずです、なにせ徳川家の第一の居城なんですから。

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大坂城―天下一の名城 (日本人はどのように建造物をつくってきたか 3)
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