大日本帝国と大英帝国に共通する大きな謎とは

それは「大」がなぜつくか、です。

まず大英帝国は英語名に「大」が入っていないのに「大英」になっていること。

イギリス帝国 - Wikipedia

Britishの訳語にない「大」の字をなぜつけるのかという問題意識が近年台頭してきている。近藤和彦「歴史理論(2005年の回顧と展望)」p8.たとえば『大英帝国の伝説』(法政大学出版局)の原書タイトルはMyth and National Identity in Nineteenth-Century Britainである。直訳すれば「19世紀ブリテンの国民意識と伝説」で、大英の文字はない。

日本では永らく「大英帝国」の訳語が使われてきたが、現在、歴史学で多く用いられるのは「イギリス帝国」という表現である。 他にも、「イギリス」という曖昧な表現を避け、より原語に忠実な「ブリテン帝国」も使われ始めている。また単に「帝国」とも呼ばれる場合もある。「大英帝国」という語も書籍の標題などでは従来と変わらずに使われるが、本文中では基本的に常に鉤括弧を付けて「大英帝国」と表記される[1]。 学問以外の領域では標題に限らず、特にイギリス帝国全盛期以降を指して「大英帝国」が一般的に使われている。また「大英帝国」から派生して"british"の訳として「大英」の語がしばしば用いられている。最も有名な例では"the British Museum"に対応する「大英博物館」、および同博物館図書室が独立し成立した"the British Library"を指す「大英図書館」が挙げられる。一方で"the British Council"は「ブリティッシュ・カウンシル」と呼ばれ、"British Commonwealth"は学問・非学問領域を問わず「イギリス連邦」「英連邦」と呼ばれており、"british"に対応する訳語は必ずしも固定されていない。

"British Empire"の訳語として「大英帝国」が使われ始めた細かい経緯ははっきりしていない。大まかな経緯としては、Great Britain(大ブリテン)を「大英」と訳したものであると考えられるが、Great BritainのGreatはもともとは島の名前であり、これは別名小ブリテンのブルターニュ(フランス)と区別してのことである。これが転じて大英帝国と呼ばれるようになったのは歴史意識が背景にあるとの指摘[1]があり、これによれば"Great Britain"と"British Empire"が結合した背景には文明開化期から日英同盟締結時にかけての、西洋、特にイギリスを文明の中心と考える見方があるという。またそれに加え、「大英帝国」と「大日本帝国」という日英同盟を仲立ちとして対比される構図も「大英帝国」という語が定着した背景として無視できない[2]。

大英博物館がいまさらイギリス博物館って言われても困りますけどね。

さてそういえば大日本帝国はなぜ大日本なのか。

大日本帝国 - Wikipedia

明治天皇は1868年1月3日(慶応3年12月9日)、王政復古を宣言。1889年(明治22年)2月11日には大日本帝国憲法(帝国憲法)が発布され、1890年(明治23年)11月29日、この憲法が施行されるにあたり大日本帝國という国名を称した。初め伊藤博文が明治天皇に提出した憲法案では日本帝國であったが、憲法案を審議する枢密院会議の席上、寺島宗則副議長が、皇室典範案に大日本とあるので文体を統一するために憲法も大日本に改めることを提案。これに対して憲法起草者の井上毅書記官長は、国名に大の字を冠するのは自ら尊大にするきらいがあり、内外に発表する憲法に大の字を書くべきでないとして反対した。結局、枢密院議長であった伊藤博文の裁定により大日本帝國に決められた[1]。

どうやら「尊大にしたい」といった気持ちがないわけではなく、結果的に「大日本」となったようです。ただ面白いのがその英訳。

帝国憲法の半公式の英訳(伊東巳代治訳)では「Empire of Japan」と訳され、「大」の意味合いはなかった。当時は国名へのこだわりがなく、帝国憲法と同時に制定された皇室典範では日本帝國、大日本國と表記し、外交文書では日本、日本國とも称したし、国内向けの公文書でも同様であった。その後、世界情勢の悪化などにより国名への面子に対する拘りが表面化した1935年(昭和10年)7月、外務省は外交文書上「大日本帝國」に表記を統一することを決定した[2]。

ここで面白いのは「当時は国名へのこだわりがなく」という点。いや国名こだわるでしょ、普通。

それはともかく、英文では「大」の意味はないので、日本国内でのみ「日本」または「大日本」を適当に使い分けていたようです。太平洋戦争に突入する直前に「大日本」に統一したのも、まさに「尊大にしたい」という虚栄の現われでしょうか。

第二次世界大戦後、日本政府が1946年2月8日に連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) に提出した憲法改正要綱では、国名を「大日本帝國」のままにしていたが、2月13日、GHQ/SCAPのホイットニーにより、憲法改正要綱の不受理通知とGHQ/SCAP草案が吉田茂外務大臣、松本烝治国務大臣らに手交され、その草案の仮訳からは国名が日本國となり、1947年(昭和22年)5月3日日本国憲法施行により憲法上は日本國の名称が用いられることとなった

戦後、戦争に負けたのでちょっと気持ち小さくなって「日本」に統一されたという経緯です。

そんなわけで英文に「大」の意味がなくとも、日本語名で「大英帝国」というのは、大日本帝国の英訳に「大」の意味が盛り込まれてない点からも必ずしも間違いとはいえません。「国名にこだわりがない」日本特有の気質であり、相手を「尊大に思っている」という敬意を表して「大」をつけたといったところではないでしょうか。

「国名にこだわりがない」という文化が未だに引きづっているのが「日本」の読み方。

ニッポン?

ニホン?

さて、どっちが正しいでしょうか。じつはこれ、どちらもOKなんです。

日本 - Wikipedia

日本語での発音

「にっぽん」、「にほん」と読まれる。日本政府は、正式な読み方を明確に定めていないが、どちらの読みでも良いとしている[16]。雅語で「ひのもと」と読むこともある[17][18]。

「日本」の国号が成立する以前、中国の王朝から「倭国」・「倭」と称されていたが、「ヤマト」の勢力が中心に倭を統一した古代の日本では、漢字の流入と共に「倭」を借字として「ヤマト」と読むようになった。やがて、その「ヤマト」に当てる漢字を「倭」から「日本」に変更し、これを「ヤマト」と読んだ。[19]
同時に、7世紀の後半の国際関係から生じた「日本」国号は、当時の国際的な読み(音読)で「ニッポン」(呉音)ないし「ジッポン」(漢音)と読まれたものと推測される[20]。いつ「ニホン」の読みが始まったか定かでない。平安時代の仮名表記では、促音・濁音の区別が無かったため、「ニッポン」音も「にほん」と表記された。ここから「ニホン」の読みが起こったと考えられる。しかし、日本語のハ行音は、P音 → F音 → H音と変化したと考えられ[21]、江戸時代以降にH音が定着したので、仮名で「にほん」と表記されたものを平安時代に「ニッポン」ないし「ニポン」と読み、やがて「ニフォン」に変化し、江戸時代の後期に「ニホン」と読むようになったと考えられる。また、平安時代に「ひのもと」とも和訓されるようになった。

室町時代の謡曲・狂言は、中国人に「ニッポン」と読ませ、日本人に「ニホン」と読ませている。安土桃山時代にポルトガル人が編纂した『日葡辞書』や『日本語小文典』等には、「ニッポン」「ニホン」「ジッポン」の読みが見られ、その用例から判断すると、改まった場面・強調したい場合に「ニッポン」が使われ、日常の場面で「ニホン」が使われていた[22]。このことから小池清治は、中世の日本人が中国語的な語感のある「ジッポン」を使用したのは、中国人・西洋人など対外的な場面に限定されていて、日常だと「ニッポン」「ニホン」が用いられていたのでは、と推測している[23]。なお、現在に伝わっていない「ジッポン」音については、その他の言語も参照。

その後、明治に入っても「ニッポン」「ニホン」が統一されない中、1934年(昭和9年)に文部省臨時国語調査会が「にっぽん」に統一して外国語表記もJapanを廃してNipponを使用する、とする案を示したが、不完全に終わった。2009年(平成21年)6月30日には、政府が「『にっぽん』『にほん』という読み方については、いずれも広く通用しており、どちらか一方に統一する必要はない」とする答弁書を閣議決定した[16]。現在、通商や交流の点で海外と関連のある紙幣、切手などに「NIPPON」と描かれる一方、「NIHON」表記を用いる団体の例としては、日本ビデオ倫理協会や日本大学、日本ユニシス、日本相撲協会などがある。なお、(国会に複数の議席を有したことのある)日本の政党名における読みは、以下の通り。

ええ加減にせえよ、と突っ込みたくなるくらい、テキトーですね。だって自分の名前、2通りもっているっておかしいでしょ。あ、だから出生届では読み方を記載せず、どんな読み方でもOKなのか。うーむ、日本は奥が深い。

私事ですが、子供が産まれました ([の] のまのしわざ)

もちろん名前はタケルと書いて、マーズと読ませる予定です(笑)

タケルはヤマトタケルノミコトからきているので、正統派日本な名前です。