サマーウォーズの舞台、上田城は実戦をくぐりぬけた時代の生き証人

RX-7でダートラをしにいった帰り、上田によりました。

サマーウォーズの舞台・上田に行ったら、細田監督に会っちゃいました ([の] のまのしわざ)

上田駅で細田監督にばったり出会ったわけですが、そのあと上田城を散策へ。

DSC_0519

この上田城の東虎口櫓門、こちらはサマーウォーズの陣内家の家の門のモデルとなっています。随分と立派なものですが、上モノの城門は再現。櫓門の南北の櫓は明治時代に遊郭として利用されるなど数奇な運命をたどったものの市民の力で出戻り、石垣とともに当時の趣を偲ばせます。

DSC_0532
(写真右上:遊郭として2つの櫓を合体させて利用)

IMG_1501
(中央:真田石)

巨石、真田石が中央に埋め込まれています。

石垣は質実剛健、特に高くもないのですが風格と圧倒的な勢いを感じます。それもそのはず、天下をとった徳川家に敵対し、2つの大きな実戦を守り抜いた実績のある石垣。

まず第一次上田合戦。

上田合戦 - Wikipedia

天正13年(1585年)には家康が甲斐へ着陣して昌幸に沼田領の北条氏への引き渡しを求めるが、昌幸は徳川氏から与えられた領地ではないことを理由にして拒否し、さらに敵対関係にあった上杉氏と通じた。同年7月、浜松に帰還した家康は昌幸の造反を知ると八月に真田討伐を起こし、家臣の鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉ら約7000の兵を真田氏の本拠・上田城に派遣する。

徳川軍は甲斐から諏訪道を北国街道に進み、上田盆地の国分寺付近に兵を展開。これに対して真田方は約1200人であったと言われ、昌幸は上田城に、長男の信幸は支城の戸石城に篭城した。また支城の矢沢城には、昌幸の従兄弟矢沢頼康が上杉の援兵と共に篭城した。

閏8月2日に上田城に攻め寄せた徳川方は、二の丸まで進むがここで反撃を受け撃退される。更に後退の際に城方の追撃を受け、戸石城の信幸も横合いから攻めるに及びついに壊乱し、追撃戦には矢沢勢も加わり神川で多数の将兵が溺死した。この真田方の地の利を活かした戦法により、徳川軍は1300人もの戦死者を出したと言われる[1]。一方、真田軍は40人ほどの犠牲ですんだ。

翌日、徳川方は近隣の小豪族で真田氏に味方した丸子氏(後、真田氏に臣従)の篭る丸子城を攻めるが、これも要害と頑強な抵抗に阻まれ攻略できず、以後20日間程対陣を続ける。この間に上杉勢援軍との小競り合いや更なる増援の報に接し、家康は援軍(井伊直政(一部部隊は当初より参陣)、大須賀康高、松平康重の5000)を出すと共に一時撤退を下令、これを受け徳川軍は28日に上田より撤退した。その後も、大久保忠世ら諸将は小諸城に留まり真田勢と小競り合いを繰り返すも、11月には譜代の重臣石川数正が豊臣家に出奔する事態に至り、完全に撤退することになる。

文字だとわかりにくいので、「だいたいあってる」ニコニコ動画をぜひどうぞ。


次にサマーウォーズ、ラブマシーンとの戦いにも使われた相手を誘い込む戦略、第二次上田合戦。

関ヶ原の合戦(第二次上田合戦) / 真田氏の館 三代録 ――幸隆、昌幸、幸村 真田三代の記録

まずはじめに上田城の北に位置している戸石城を落とすために、真田信幸隊が進撃した。戸石城は真田幸村が守っていたが、幸村は兄との戦闘を避け上田城に撤退した。信幸は無人となった城を確保し、これを守備した。

秀忠は9月6日に上田城外の染谷台に陣を進め、上田城を包囲した。そこに、昌幸・幸村が4、50騎を率いて城外に偵察に出てきたのである。昌幸は戦わないで城内に引き揚げると、徳川軍は昌幸を追って上田城に迫った。しかし、続く兵が少ないので後軍が来るまで待機していると、そこに真田の伏兵が現れ激しい戦いになった。

上田城西櫓次第に押されてきた真田軍は城に退き始めた。これにつられた徳川軍は追撃をはじめ、上田城近くまで迫ったとき、伊勢崎城(虚空蔵山)から現れた伏兵が手薄になった秀忠本陣に襲い掛かった。徳川軍は混乱し、そこに向かって真田鉄砲隊が射撃をはじめた。さらに、真田幸村隊が城から討って出、秀忠軍を挟撃した。徳川軍はかろうじて総崩れを免れたが、大損害を受けた。

後軍は救援に来ようとしていたが、神川が増水しており流れが激しく渡ることが出来ない。これは、あらかじめ幸村が神川の上流をせき止めておき、徳川群の状況を見て、せき止めを切ったためであった。しばらくして、徳川の後軍がやって来たので、幸村は上田城に退却し、篭城策をとった。秀忠はなおも上田城を攻撃したが、為す術がなく、また、老臣達の進言もあり、上田城攻略を諦めて、関ヶ原への道を急いだ。

しかし、秀忠軍が関ヶ原に着いたのは、決着がついた4日後であった。

ポイントは相手を腰ぬけと挑発し、攻め込ませるところ。
こちらも分かりやすい、「だいたいあってる」ニコニコ動画をぜひどうぞ。

DSC_0496
(二の丸橋、石垣)

DSC_0580
(東虎口、南櫓から千曲川流域・上田市街をのぞむ)

DSC_0612
(西虎口櫓門跡、西櫓)

DSC_0633
DSC_0650
(北虎口、食い違い虎口)

DSC_0653
(本丸堀と、本丸土塁の隅おとし)

上田城自体は広大ですが、本丸はとてもコンパクト。その本丸近くの二の丸まで2度も攻め込まれて、いや攻め込ませるってんですから太っ腹。しかも本丸堀、土塁はさほど高さもなく、相手もこれなら簡単に落とせるだろうと思います。

実際にはこれがワナで背面から伏兵による攻撃、はさみうちで相手は散りじりになって敗走。この無類の強さ、しぶとさが上田城の魅力ではないでしょうか。

そしてその強さを支えるのが立地の周到さ。南側は千曲川流域の断崖をうまく利用、平城でありながら平山城の様相を呈しています。

本丸堀は千曲川の水位からかんがえると随分と高い位置にあり、この水は遠く4km東を流れる神川から取り入れられています。このうまく周辺の水を利用することや、「鬼門よけ」として本丸堀の隅落としをするなど、風水的にも随分と配慮されているように見受けられます。

DSC_0621
(本丸堀)

高い石垣を作らず、堀をほってその土を積みあげて土塁にするといったローテクでありながらも、守りが固い城になっているのはこの風水的配慮が功を奏しています。

もうひとつ、重要なのが上田城支城の山城。

砥石城は伊勢山バス停の側にある支城で、サマーウォーズの陣内家の所在地となっている場所。

DSC_0673
(砥石城入口から上田市街を見下ろす)

砥石城は典型的な山城で、土塁や石垣はまったくなくただ山があるのみ。今回勢いあまって30分登山をしたのですが・・・

DSC_0682
DSC_0684

果てしない階段に、岩。

その余りもの急坂に汗だくにへとへと。武具をつけた武士がこの急坂をあがるとなると、圧倒的に城側が有利ですね。思わず「誰だよ、こんなところに城を作ったのは!」と口走ってしまいましたが、こんな場所だから城にしたんですね。

DSC_0692
(砥石城山頂から上田市街をのぞむ。手前の山は米山城)

山頂は標高791m、高尾山の599mを軽く200m超えてます。

砥石城 ザ・登城

よく知られるように、砥石城は「枡形城」「本城」「砥石城」(+「米山城」を含む場合もある)の複合城郭群であり、本城を中心に北に桝形城、南に砥石城、南西に米山城を配した構成となっています。 これによって、どこか一ヶ所が落とされても、他の曲輪が敵の背後を襲う、という、「蛇の頭と尻尾」の関係にあります。砥石城は戸石城と記載されることもあります。

この山頂についたとき、先客が2人。思わず合言葉のように

「サマーウォーズですか?」

「サマーウォーズです」

とのやりとりが。意気投合して夕食一緒にたべることになりました。

そんな旅の出会いはとりあえずおいといて、砥石城は上田城と表裏一体の役割。第一次上田合戦では上田城を守るべく側面攻撃。第二次上田合戦では上田城の前に一旦敵を引きつけ、戦うとみせかけて上田城へ遁走。相手を足止めして時間を稼ぐことに成功しています。

DSC_0593
(真田井戸)

第二次上田合戦では徳川の後軍が増水した神川を渡れずに、大損害をこうむります。この増水は上流の堰をきったため、と言われていますが本当のところは不明です。しかし本丸堀の水を神川からひいたり、本丸の真田井戸は抜け穴になっていて上田城北方の太郎山麓や藩主居館(上田高校付近)に通じてたともいわれるので、自然をうまくを活かしていたことが伺えます。

城自体はひとつも派手なところはなく、質実剛健。石垣というインフラに頼りきるのではなく、縄張りの妙、他の支城との連携、伏兵を仕込むなど少ない兵力を最大限に活用、さらに相手を挑発するなど運用面で圧倒的兵力差を埋めてます。2度の大きな実戦をくぐり抜けた上田城は不思議な魅力を放つ素晴らしいところでした。

DSC_0534

【Amazon】
リボルテックヤマグチ No.080 戦国BASARA 真田幸村

B002SW35JQ

ただ、すっかり戦国BASARAに浸食されていましたが。