非凡な押井守がいう「凡人として生きるということ」

毎日宮崎駿だ、鈴木敏夫だ、とスタジオジブリ系の書物ばっかり読んでいて疲れたのでここで息抜き。押井守監督の著作、「凡人として生きるということ」です。

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非常に自然体で若者に語りかける口調のこの本は読みやすく、あっという間に読み終えてしまいました。しかし読みやすいからといて、読み解きやすいかは別。言葉を駆使して論理展開する様は脳みそを使い、トリックに騙されまいと警戒して読んでいたのですが、そんな心配はいりませんでした。とにかく流れるような展開で、よっぽど映画よりも分かりやすいです。

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一方で押井守監督の映画にも共通するのは、その論理展開の演出。どの章もテーマ設定に沿って、出したり引いたり、反転したり。言葉の定義からはじまって、虚実の間をいったりきたり。そうしているうちに真実をあぶりだすという手法は映画そっくりです。そしてこの手法はなんだろう、何かに似ているという既視感にとらわれたのですが、それはなんと数学でした。

数学での定理の証明に似ている、

と思ったのです。

前提条件を提示し、集合や不平等式を駆使、時には微分積分を使って最終的に証明してしまう、アノ手法です。いかんせん数学ですから、虚数だって出てきます。実数に落とすために先に虚数を使って計算する。それを言葉、いや日本語を使ってやっているんですね。

押井守監督の映画といえば虚構と現実をいったりきたり、で、自分の存在は一体何?みたいな演出を仕掛けますが、それを言葉だけでやってのけていました。おそらく若かりし頃、学生運動に傾倒し、夜を明かして議論して養った才能の発露なんでしょうね。

さてそんなことより本の内容ですが、基本的には若者へ生きろ、というメッセージです。しかも手を抜いて。この世の中には「デマゴギー」がはびこっている。そのデマをみんな信じてがんじがらめになっていると。

特に「友だち」については痛烈です。「友だちなんか、要らない」「自分はいないしこれからも持つ気もない」。あの「うる星やつら」の登場人物が象徴的で、友人はでてくるが全員が自分の欲望を満たすこと、損得しか考えず、誰かと共闘するというもの。これが現実の友人関係に近いと考えて表現したという。

現代社会では「友情」が美しいものとされ、友人を持つことが必要とされる、いや強要される。これこそがデマゴギー。そのために友人を持たなければならないと焦り、友人を持たないことで孤独感にさいなまれる、友人を持っているやつらが恨めしくなる、恐怖と怒り。その結果の事件が後を絶たない。mixi疲れや、携帯メールに即返信しなければいけない風潮もそこが根源かもしれない・・・

ということで押井守は友達はいないという。しかし映画作りの関係上「仕事仲間」は必要。損得勘定の上でつきあう、お互いにメリットがあるから一緒にいるという関係を勧めます。だから若者は早く社会にでて、必要に応じた「仲間」を作ればいいと言うのです。

確かにドラクエの仲間って、そういうことですね。あれはお互いの損得が一致したからパーティなのであって、単なる好きや友情だけで組んだら、あっという間にモンスターにやられます。

「無償の友情など幻想だ」と言い切るのですが、このひねくれたメッセージは逆説的な意味も込められていて、「無償の友情があったらそれは最高だよ、でもそれは全員が得られるわけじゃないから、そんな期待をせずに、気楽に人と付き合おう」といっているんでしょうね。

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押井 守

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p.s.

この本には何人かのアニメ関係者が出てきます。ひとりは宮さん(宮崎駿)。そして「イノセンス」のプロデューサーをしたスタジオジブリの鈴木敏夫。そして最後は庵野秀明。

いずれにしても宮崎駿系ですね。

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