「漫画版ナウシカ」はどちらかというと「映画版もののけ姫」

ようやく漫画版ナウシカを読み終わりました。そこでの最初の感想が「映画版もののけ姫」みたい。

映画版ナウシカは漫画版ナウシカ1,2巻をベースにしていますが設定も若干異なったりしていて、なによりストーリー、特にクライマックスである王蟲の暴走をドロドロになって崩れる巨神兵が食い止めようとするといったくだりは全然違います。

風の谷のナウシカ - Wikipedia
映画版ナウシカは、演出上の理由からナウシカが王蟲の暴走を食い止めるために王蟲の群れに巻き込まれるエピソードなどが加えられている。これについて宮崎は、映画を宗教的な画面にしてしまったことへの忸怩たる思いを隠さず、宿題が残った映画であると発言した。[7]
[7] 押井守は『映画 風の谷のナウシカ GUIDE BOOK』で、演出で強引にラストへと持っていったことに関して「あそこは納得できません」としている。

えーっと、また押井監督のご登場ですけれども、この納得ができないという点については

ナウシカに隠された宮崎駿の陰謀 ([の] のまのしわざ)
押井:そのくらい日本で戦争を描こうとした瞬間、叩き込まれた日本独特の戦争文化、さっき言った「孤立した武闘派」と「個艦優越主義」と、もろもろをひっくるめて言えば、要するに敗者の安逸。それ以外ないんだよ。

一同:(笑)

押井:ぜんぜん反省してないよ。女子どもが兵器に乗っているっていう発想自体がすでにそう。その時点で戦争に負けてるじゃん。なぜ女子どもなんだ。まともな発想がなぜでないんだ。

に現れているんでしょうね。

ただ2時間という映画の枠で、しかもクライマックスを最後に作らなければいけない、という制約があった場合に映画版ナウシカのあのストーリーラインは致し方ないところでしょうし、実際それが一般には受けましたし。どんな映画でも、宮崎アニメでもそうですけど、結局最後は何かが大爆発、大崩落してオシマイというワンパターンから脱却できてません。それに次から次へと強い敵がやってきて、強さのインフレがおきてしまう「ドラゴンボールパターン」を踏襲してしまいます。ここでいうと

人間 < 蟲 < 巨神兵 < 蟲の大群 < 捨て身のナウシカ

さらにいうと最後はその敵と友人となり、がっちり握手という友情劇まで繰り広げると、いわゆる

「ジャンプの法則」

に合致して、永遠に戦い続けることができるんですが。ああ、一応それに合ってますね(ナウシカと蟲)。

それはともかくとして、そういったパターンにはまったことに対して押井監督は「納得できない」とし、宮崎監督は「忸怩たる思い」を抱いたのでしょう。多分宗教的な画面というのは生き返ることや、救世主が現れたことに対するところでしょうか。しかしそれは逆に瑣末なのではないかと思うんですよね。なにせ日本では救世主を待望する、神が現人神となって現れ死んでも生き返るといった一神教的な常識が浸透していませんから、ナウシカが生き返っても

「ああ、蟲が治してくれたんだ」

と思うし、伝説の青い布をまとった救い主の言い伝えに関しても

「たまたま」

と感じたんじゃなかろうかと。私はというと当時見た時には単純に

「ご都合主義だな」

と感じたのはここだけの話。

さて3巻以降の漫画版ナウシカはというと、これがなんというか壮大は話でとても面白いです。確かにナウシカは漫画版も読むべきというようにオススメする理由がよくわかりますね。

ただ正直な感想をいうと、漫画版ナウシカは映画版ナウシカと別作品ととらえて方がいいかなあと。漫画版ナウシカは

映画版もののけ姫+不思議の海のナディア(後半)

といった風情。超常現象がバンバンでるし、オーバーテクノロジーはでてくるし、もののけだし、こりゃあまったくの別物。だから漫画版ナウシカは

「風の谷のもののけ姫」

と改称した方が理解しやすいかもしれません。

ちなみに漫画版(というか、ストーリーボード)もののけ姫と映画版もののけ姫は設定も話もまったく共通性のない、完全なる別作品。なぜそうなったかというと映画にするにあたって、映画の商業性を追求した結果。

つまり宮崎監督はパッケージに合わせて作品を作り変える柔軟性を持っているということですね。漫画版ナウシカがもともとTVアニメや映画にできないような話を漫画で描こうとして着想、開始されたわけですから、映画版で相当な組み換えをするのは自然です。

そうなると映画版ナウシカにおいて、映画をヒットさせるためにあえてあのようなクライマックスをもってきたのは恣意的・狙いですが、それが本意なのか、本当に忸怩たる思いだったのかは碇ゲンドウ監督となると本心が掴めません・・・