葬儀でした

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突然ですが、妻の祖母、子供からみると曾祖母が亡くなりました。そのため昨晩から通夜、本日告別式とフルタイムでの葬儀でした。

齢95歳。職業は会社会長。戦争で夫を亡くし、女一人で酒問屋を立ち上げ、男社会の中で生き抜いてきて、まさに生涯現役。頭脳明晰で、話す言葉も内容もしっかりしているどころか太刀打ちできないほどの含蓄。それもそうです、大正2年生まれ。明治の香りが残る時代から、大正、昭和、平成の世の中を約1世紀も生きてこられたわけですから。しかもただ生きてきたのではなく、会社の経営者として、ビジネスウーマンとしてやってきたパワー。その有り余るパワーで子供が小学生になるまでは安泰と思っていたのですが、先月転倒で骨折してベッドでの生活を余儀なくされ、心筋梗塞でなくなるまで一月余り。不吉な想像すらする間もない出来事でした。

寿命といってしまえばそれまでですが、おそらくはこの世に思い残すことはなくなって、やりきった感をもったんじゃないかと感じています。会社の状態も酒業界再編や流通変革によりここ十年来思わしくなかったものの、4月には新しい体制になることが決ったといいます。また唯一のひ孫であるうちの子供の七五三をつい先日見届けて、「もう思い残すことはないよ」と笑顔でいっていたことが思い起こされます。運悪く倒れて骨折しなければ今も元気だったと思うと残念でなりませんが、これも運命として受け入れるしかありません。

遺骨はとてもしっかりとしており、正直そのがっちりとした骨に驚きを隠せませんでした。私は90歳からのお姿しか知りませんが、おそらく若い頃は想像できなくらいの溢れるパワーと情熱を持っていたに違いありません。

そんな曾祖母に子供はとてもかわいがってもらっており、まさに目に入れても痛くないほどのかわいがりよう。まだ兄弟も従兄弟もいない息子ですが、たくさんのジェネレーションの人に接する機会が少なくなっている昨今、祖父母だけではなく、曾祖母にかわいがってもらったことはとても幸せなことでした。

今回葬儀は日蓮宗の儀礼にならって執り行われたのですが、実は葬儀自体私にとって初体験。儀式はどうということはないのですが、寺の住職が随伴して斎場、そして初七日の法要として式場まで来ているというのは不思議な感覚でした。死んだらどうなるというところの感覚というか捉え方は仏教に(当然)のっとっているのですが、本当にそういうのは感覚というか、心理的というか、哲学というか、信仰に立脚するものなんだなと再確認。もちろんこれがキリスト教であればまた異なる捉え方をするわけですが、いずれにしても物理的に肉体が滅んでも故人の存在、存在していたという事実は決してなくなることなく、未来永劫続くんだなということを感じています。

四十九日など今後も法要が続きますが、故人を偲び冥福を祈っていきたいと思います。