知覧特攻平和会館

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てっきり「特攻記念館」だとばかり思ってましたが、「平和会館」でした。misleadingを避けるためだと思いますが、日本に対しても、国際社会に対しての配慮が伺えます。

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知覧特攻平和会館について

この特攻平和会館は大東亜戦争末期(戦後は太平洋戦争ともいう)、沖縄決戦において特攻という人類史上類のない作戦で、爆弾搭載の飛行機もろとも肉弾となり、一機一艦の突撃を敢行した多くの特攻隊員の遺品や関係資料を展示しています。

特攻=特別攻撃がなんだったか詳しくは他に譲るとして、アメリカ軍の圧倒的な技術的優位、物量的優位を前に劣勢にたたされた日本軍の最後の手段でした。100円で解説用のレシーバーを借りることができるのですが、これは是非借りた方がいいです。涙なしには見ることが出来ません。

史実を見るときにどの視点から見るか、というのは重要です。この平和会館は知覧飛行場跡地に建っており、知覧という地域性がとくに反映されています。つまり知覧の町は戦中に知覧飛行場の建設、そして飛行隊訓練場としての知覧飛行場、そして戦争末期には特攻基地として、B29への体当たり戦法をとるための特攻隊員を送り出す場所となります。誰にとっても、誰が死んでも悲しいことですが、死ぬのを分かって見送らなければならない立場から特攻というものを見たとき、死んでいった人たちを弔わなければならない宿命を背負ってしまったのではないでしょうか。

そのために特攻隊員の辞世の句、絶筆が一堂に集められているわけですが、そこにはただ戦争という大きな時代の潮流に飲み込まれた当時の人たちの肉筆であり、肉声でもあります。

ところで昨今も含めてよく「戦争はいけない、平和でいよう」といった安直な風潮があるわけですが日本語の定義は難しいと感じます。日本人にとって最近の戦争はこの第二次世界大戦で、戦争といえば軍人だけが戦う武力戦ではなく、民間人をも巻き込んだ総力戦が唯一の戦争体験になります。そのため民間人は当然戦争を嫌うわけで、戦争をしない状態を望みます。これがいわゆる「平和」ということを指しているわけですが、一方でアメリカを例にとるとアメリカの民間人は南北戦争以降ずっと平和を謳歌しています。しかし実際にはアメリカ軍は周期的に戦争を行っており、最近の歴史から逆に数えると「イラク戦争」「湾岸戦争」「ベトナム戦争」「朝鮮戦争」となって、ようやく「第二次世界大戦(WW2)」まで遡ることが出来ます。アメリカにとって戦争とはほとんどが武力戦であり、民間人にはほとんど影響がありません。おそらくアメリカにとって平和を維持することと、戦争をすることが同義であると思われます。

私たち日本人にとって惜しいのは戦争体験が少ないこと、戦争体験者の高齢化によって生の声が伝わりにくくなっていること(1次ソースの欠如)、戦争後世代によるバイアスです。これらにより正しく史実を知ることが難しい環境になっている気がします。そういった中でこういった平和会館を訪れることは史実を知るいい機会になりました。