今回はたまたま当時中学2年生で学徒動員により中島飛行機で働いており、この浅川地下壕で終戦を迎えた方が来て貴重なお話が聞けました。
- 週に5日、中島飛行機で働いていた。一日だけ授業を受けた(ということは日曜日はお休みできたようだ)
- 通勤で中央線を使っていたが空襲警報が鳴ると電車が止まるので、そのたびに多摩川に泳ぎにいっていた
- 昼は配給で握り飯がでた。たまに赤い握り飯があるので赤飯かと思って嬉しがってよくみたら、違った
- 夜は雑炊みたいなものをよく食べていた
- 浅川地下壕では大八車に荷物を載せて、外に運び出す作業をしていた
- 床がでこぼこしているので、よくひっくりかえった
- 玉音放送は山間のためラジオの音が悪くて何言っているかわからなかった(終戦なのか、まだまだやるのか)
予想どおりなんですが、戦時中を知る方は戦時中の出来事を本当に普通の日常としてお話されます。そこにはイデオロギーとか、プロパガンダとかない、素の中学2年生の日常が蘇ります。
写真が以下に続きます。
今回の重装備です。懐中電灯はヘッドライトと手持ちの大きなものを直前にドン・キホーテで買いました。トンネルの中なので崩落してしばらく閉じ込められていいように、食料と水も装備です。崩落しない限りは安全な場所でした。空気もこもった感じは無かったです。一部もやっぽいところがありましたが、それは雨水が染み出たためのようです。大雨後は床に相当水がたまり、外へ流れ出るそうです。
以下に資料があります。クリックで拡大してご覧ください。
一悶着:
見学自体は無事に終わったのですが、外にでると一悶着が。写真にもあるように、ここには東大地震研の地震計が設置されています。見学会を引率された方は迷惑にならないようにと近くは通らないなど細心の配慮をされていましたが、それでも都合が悪かったらしく警察まで引き連れてのお出ましでした。
「3億円の機材が壊れたらどう責任をとるんだ!」と東大地震研の人がいってましたが、まずそんな話は場違いで別の機会に話し合ってほしいこと。それにだいたい国立大学でしょう?国民の税金を使って、国から給料を貰っている分際で国民に対して権威をふりかざすとは不愉快な。そもそもあの程度の機材で3億円はボッタクリというのは、また別の話としてありますが。
ちなみに前日の落雷で調子が悪くなって、坑内の電気をつけるとより調子が悪くなるそうです。それがゆえに引率の方は電気をつけないで入っていたんですけど(だから最初の写真は真っ暗)。帰り道のtころは電気がついてました。誰がつけたんでしょうね?? 電気がつくと、当時の地下壕の様子を彷彿とさせてより雰囲気がありました。
「戦争が非日常で、平和が日常」
みたいな幻想をベースにして話をすすめるでなく、戦争が日常の中にあったことをより知らしめるためにもこういった遺跡は是非残していきたいものです。