17歳

息子が8月で17歳の誕生日を迎えた。しかも海外で一人。

ということで少し振り返ってみたいと思う。

リスペクトの意味

F1で激しいクラッシュがあったとき、インタビューでぶつけた相手はぶつけられた方をリスペクトしろという。リスペクトという概念は実は日本人には乏しい、理解しにくいもので文脈から類推するとどうも「オレはここにいる」ということを認識しろということがなんとなくわかってきた。

逆の意味では「無視」である。つまりいるのにいない、とすること。だから「リスペクト」は「無視しない、そこにいることを理解し、重んじる」と意味が転じてくる。

さて子供である。

子供は生まれた瞬間は赤ん坊であり、言葉は喋らないし、移動できないし、食べるのもトイレも一人では不可能だ。特に母親においては、自分の中で作られて大きくなって物理的にへその緒で繋がっているからまさに自分自身そのものであり、生まれて分離されたとしてもどうも「自分の分身」もしくは自分自身、はたまた所有物としてふるまう傾向にあると思う。

多少成長し、そう10歳程度になるまではそのように親が振舞っていてもさして大きな問題にはならないし、子供は依存関係にあるので甘んじてその境遇を受けるしかない。ある意味家庭内パワハラが横行するのはこれが理由である。

そして反抗期の到来。

自我をもったから、というよりも抑圧されてきたことや、一人の人格として「リスペクト」されてない境遇に気づいたこどもは口達者になったこともあり反抗をはじめる。

「どうして僕がお父さんの趣味に付き合わなきゃならないの」

それまでどこに連れていくにしても黙って従っていた子供が発した言葉がこれである。これは正直まいった。まさにその通りだからである。この時にようやく気付いた、そうか子供は所有物でも管理下にある部下でもなく、一人の人間であること。

人間であるわけだから、リスペクトしなければならないということ。

リスペクトは対等な関係である。F1ドライバーでいえばベテランやチャンピオンであったとしても、老舗チームか否かやマシンの競争力に差があったとしても、コーナーに横並びに飛び込んだときはお互いにぶつけない、相手をリスペクトしあうことを求められる。

親子の関係にあってもそうであるべきだろう。

ということで否応なく接し方を変えた。具体的にはこうだ。

親としては子供を外に連れていくのは教育の一環である。ただ面白いとか楽しいとかではなく、今の時期これをやっていた方が将来の役にたつ、成長につながるといったことを考えて多少面白くない、楽しそうでもないことでもやらせたいと思う。

ところがこれが子供にとっては面白くないわけだ。じゃあ強制できるのか? めったに強制できない。

そこでここでプレゼンがはじまる。

このことがいかに子供本人にとっていいことか、楽しいことか、決して親の趣味や楽しみだけではなく、子供本人にとってもいいことかを伝える。

たまに失敗してそれでも拒否られることもある。
一方で二言三言で伝わってすぐにいく、ということもある。

いずれにしても大事なのは「本人が選択した、決断した」という事実だ。

親の狙い

具体例でいうとある時首都高環状2号線、通称C2の開通前に一般公開して中を歩けるイベントがあった。子供にとってまあなんも面白くないイベントである。それでも連れて行ったのは狙いとしてはこの機会は未来永劫ないこと、都市のインフラがどうやって作られているかということ、事故や天変地異の際にどうやったら助かる、脱出できるかをみること、である。

まあ口実といえば口実であるが、ラジコンでもそうだ。

完成品ラジコンを買ってきて遊んでいてぶつけて壊しても、中の構造が分からないから直せない。
しかしキットであれば自分で組んでいるから直し方はわかる。

世の中お金を出せばなんでも買える時代だが、安全やサバイバル力はお金では買えない。だからこそ自分で考え行動できるために、知ることが大切である。

なんてことはなかなか伝わらない。

文句たらたらでついてきて、不機嫌まきちらしてC2に入った彼だが、中に入れば非日常のトンネル散歩。非常脱出口をみたり、働くクルマをみたりしてそれはそれで楽しめた。

そしてその後C2を通ったときに非常口の場所や脱出方法を口にしていたので、それなりに理解したようだ。

自分で判断、行動すること

子供は小人と書くこともある。小人は言い得て妙で、大人が大きな人間であるのと対局の、小さな人間であるからだ。これはサイズしか違わない。だから上記のリスペクトで対等でお互いに会話をもって相互理解をする必要がある。ここに大人だから、親だからといって強制させることはよろしくない。

よろしくない理由はすべてを大人、親にゆだねてしまう癖がついてしまうからだ。

「どっちでもいいよ、お父さんが決めて」

例えば食事、小さなことでまさにどうでもいいことだけど大事なのは本人が考えて決めることが大事だ。小さな決断ができない人間が大きな決断ができるはずはない。

そして大人、親は順当にいけば先に死ぬ。死ぬ前に小人を人格的、社会的に大人にするのは大人、親の責務である。

とはいえ親が大人であるか、親らしくあるかなんて保証はできない。親もはじめての親業務であって、成長が促されるのだ。つまり小人から学ぶことが多い、いや学ばせてもらっている。

幸い、うちの子は男の子であり実によく自分に似ていた。それだけにどういう考え方(ロジック)、どういう感じ方をするかが手に取るように分かる。これが女の子だったもうお手上げだったろう。なにせ女性の気持ちはさっぱり分からないから。

子が親に対してどう感じるか、どうしてほしいか、どうしてほしくないか、がだいたいわかるので基本はほっておく。そう、親になんか干渉されたくないし、話なんてしたくないのだ。

これが分からない母親は干渉し、衝突、トラブルの原因を作ってしまう。まあそれも仕方ない、女系家族で男性は犬くらいしか接したことがないから。だから犬っかわいがりで、反抗期になったら犬を飼い始めた。なるほどである。

留学中

どうせ「勉強しろ」といっても勉強しないし、反抗するだけなのは自分の例で分かっているからまったく言わなかった。なんなら勉強しなくていい、高校にもいかなくていいから働いてね、と言い続けた。成績表だってチラ見はするけどそれでどうせいこうせいなんて言わない。言ったところでムカつくだけで無駄だからだ。

やりたいことはやる。やりたくないことはやらない。

非常に分かりやすい教育方針である。それだと将来困るでしょう、いまこれやっとかなきゃ、というのも親としてはもちろんあるが、いかんせん反発心旺盛な家系なので、逆効果。それに旧世代の我々が新世代の子たちに将来これが役立つなんて言えるはずがない。未来は変化するのだ、我々世代の勝ち法則が通用するかなんて分からない。むしろ柔軟性を阻害し、考える能力が低下するからほっとくのが一番。

その結果どうなったか。

なぜか今ニュージーランドに留学している。

高校進学もそうだし、留学は確かに親は薦めたが最終的に判断したのは彼自身である。

その後も教育委員会の型にはめるやり方に多いに反発しつつ、無口でぶっきらぼうになりつつも課題をこなして出発時は親ともめて直前まで不機嫌・無表情になりつつも旅立っていった。

そしたらCOVID-19勃発。

渡航制限がかかるなか留学を切り上げて帰国する留学生や、今年後半予定していた留学生はキャンセル、来年度の応募もおそらくなかったであろう。そんな中今のところ予定どおり約1年弱の期間を海外で過ごすことができたのは幸運以外の何物でもない。これが今年は見送って来年応募するとか流暢なことをいっていたら、留学はできなかっただろう。

こういう選択の積み重ねが人生をかたどっていく。

身体的には身長180cmオーバー、立派な大人である。精神的にも急激に成長を遂げているはずだ。
足りないのは人生経験だけであるから、今後もますます彼から私が学ぶことが多くなるだろう。私が親としての成長をしたのは、彼がいたからこそであるから。

でもまだ負けない。負けてはいられない。私も成長をし続ける。