国家教育について


先日文科省の人がこの未曾有のCOVID-19の教育界への影響について、危機感がなさすぎる、ありとあらゆる手段(主にIT化)を使って教育してほしいと発言し、教育界では喝采を浴びました。一番保守的だと思われる役人が率先してIT化、オンライン教育化を啓蒙したのですからそれはそれで価値があると思う一方、ほんと皮肉だな、最大級のブーメランだと思った次第。というのもその保守的な学校の現場を司る教師達を作ったのは他でもない、その文科省が過去指導し育てた優秀な生徒たちが成長してなった教師、教育者たちであるからです。

なぜそんなことになるかというと、基本的に日本の学校教育は「自分で考える能力の排除」を徹底しているからです。「学力」は本来「学ぶ力」「学ぼうとする能力」ですが、実際教育現場で行われているのは「コピペ」です。正解をただしく答案にコピペする能力、記憶力です。正解が存在しないものに対して、模範解答が存在しないものはテストに出せないので、その能力は問われません。

このコピペ文化は今に始まったことではありません。実は明治時代となり、学制がはじまって国家教育草創期に学校教育自体を外国からコピペしたところに遡ります。なにせコピペですからテキストもそのままコピペ、翻訳だけしたというお粗末なもの。なぜそういったテキストにしたのか、何を教えたいのかというコンテキストやフィロソフィーは顧みられず、表層をなぞっただけに過ぎないという指摘が、学校教育ははじまってすぐに問題視されました。と、最初の小学校、尋常小学校に書いてありましたよ。

それに抗い、新しい学校を作ろうと奮闘した人たちが大正期にたくさん出ていますが、じゃあその後100年たってどうなったかというとこの残念な状況です。しょせんコピペはコピペなんです。

自分の頭で考える能力、とはすなわち、自分で実際にトライして、失敗して、その中から学び取ることに他なりません。

ところがなにせ失敗してはいけない、失敗しないために正解を探してくることが今の教育ですから、正解探しには長けているんです。ところがこういったCOVID-19のような、これまでに経験のない危機に直面したときに弱い、弱すぎる。だってまだ正解ないんですから。何が正解かわからないのに、これは正解ではない、とかいう批判する力はあるのだからまた厄介。日本に言論の自由があるのだから誰がなにをいってもいいんですが、私にも言論の自由があるのでいっておくと、うるせーだまってろ、です。とはいえ、ソーシャルであちこち言って回ってもしゃあないので、私が黙りますが。

そんなわけで綺麗さっぱり「自分の頭で考える」「自分が動いて失敗して学び取る」力がないことをこの文科省の人が証明してしまったわけで、ほんと教育とはどうにもならんなあと思う次第。

もっと言えば、そもそも人が人を教育できるという、能力を高めることにより国力を上げられるという幻想が厄介なんです。結論からいうと人は持って生まれた能力、DNAがほぼ9割です。駄馬からは駄馬しか生まれません、サラブレットからしか駿馬は生まれないんです。

昔は「分相応」という言葉があって、分をわきまえていたんですけど、明治になってから自由とか平等とか、そういう幻想を植え付けることによって、人は(職業的に)何をやってもいいし、できるようになる、だからガンバレ、みたいな感じになったわけです。

これは裏があって、明治時代というのは国家誕生の歴史なのですが、国際社会の中に国家という位置づけでもって列強と対抗するためには、江戸時代に持っていたような旧来(封建主義)のやり方では対抗できなかったからです。で対抗するために富国強兵策を打ち出すわけですが、その中で一番大きいのは学制と徴兵制です。

徴兵制はいわずもがな軍隊の兵隊を作るのですが、そもそも江戸幕府というのは軍事国家でした。サムライは士族で、武力をもつ軍人なわけです。ところが江戸幕府はアメリカでいえば United States、幕藩体制だったので各藩で武力をそれぞれ持っていたわけです。明治政府はそれが気に入らない、だからまず士族を解体し、国軍を持とうとして、その兵隊は農民を中心にしたわけです。なんで士族がいらないかっていうと、この鉄砲と大砲の時代に、なにが日本刀じゃ、接近戦じゃというわけですよ。まあそれで反感かって西南戦争になるわけですが、田原坂の戦いではこの日本刀をつかう士族の残党に農民に最新鋭の銃を装備した官軍が苦戦して仕方なく、士族出身者を中心に「抜刀隊」を組織して対抗するわけですが、閑話休題。

学制は知力の軍隊といっていいでしょう。と同時に兵士候補生を養成する目的もありました。その結果何がおきるかというと運動場があって、軍事教練をベースにした体育があって、運動会があるという状況。ここでもコピペ文化は健在です。この運動会の日本最大級のものが、富士の裾野で行われる演習であり、その式次第から進行、ナレーションまで恐ろしいことにほとんどコピペ、もしくはサブセットです。そもそも運動会やるときに空砲うつとか、どんなだよ。

学校の目的は、その後兵隊になる人間、または産業革命で急激に拡大する工場の労働者を確保するためでした。だからそもそもそれぞれ個人が考える必要はなかったんですね。むしろ頭が使える奴は邪魔、全員ロボットのように指令を受けたら素直にそのまま行動する従順なコピーロボットが欲しいわけです。だから創造性とか個性とは無視するのはまあ当然。だって兵士A, B, Cに区別があっては、戦死したときにリプレイスできなわけですから。みんな等しくなきゃいけないんです、ようはネジです。10mmのトラスネジが欲しいときに、いやオレは11mmだ、おれはキャップスクリューだとか種類があっては困るんですよ。

そしてもう一つ、学制の最大の問題は「親から子を教育する権利を奪った」ことにあります。

義務教育というと誰でも教育を受けられて素晴らしいと思いますが、一方で全員中学まで絶対に学校にいかなきゃいけなくって、家庭から引き離されているんですよ、国家権力において。

学制までは教育は親の務めでした。また藩校や寺子屋、私塾といった民間の教育施設でそれぞれ独自のカリキュラムで読み書きそろばんや高等教育を受けていたんです。

ところが明治政府はこれをよしとしなかったわけです。その目的は富国強兵にあるのは間違いありませんが、もう一つの側面としては地方それぞれで独自の歴史解釈をいれられたくなかったことがあるでしょう。なにせ日本を二分した大政奉還ですから、それに反対する人がまだまだアクティブだったわけで、薩長が日本をのっとった、と教えられては困るわけです。

かくして教育の標準化が進むわけですが、基本外国のまるうつし、表層のコピペ。教員という職業もないからあわてて同時につくり、それもコピペ。だからそもそも日本において教育者とか存在しないんです。

親から子を教育する権利を奪った弊害は色々あり、それまで一子相伝、家業を受け継ぐといったことが希薄になることです。なんでそうしたかったかというと、工場労働者を確保したかったわけで、もう農民とか士族とか、いらんわけですよ。明治は工場労働者、昭和はオフィスワーカー、会社員が求められたわけです。

では学校はどうあるべきか、ってことを文科省や学校関係者がいくら議論しても打開策がでないのは、そりゃそうです、だって彼ら社会知らないもん。学校でて、そのまま官僚になる、または学校に入る。基本まじめで、従順、知識は豊富ないい人たちです。そして一番の問題は教師って基本、勉強が好きなんですよ。勉強が好きだから、勉強が嫌いな人の気持ちがわからない。あの手この手で教えようとするんだけど、嫌いな方からいえば、その勉強は面白くないんです。他にもっと面白いことがあるからそれをしたい。

だからここで教育の限界、正確には日本の教育の限界があるんです。西洋から輸入した魂なき教育を模倣して模造したコピペじゃもう無理。

私の持論は勉強ってもう self-directed learningしかありえない。いわゆる自学自習です。

これを実践していた日本最古の学校が足利学校です。

創設は室町時代ともいわれ、主に兵学と朱子学を学ぶ場所としてあり、有能な軍師を輩出したことで有名で、ある有能な軍師に武田信玄が「お前は足利学校出身か?」と尋ねたこともあるそう。徳川家康も一目置いていたはず。

この足利学校の特長は現代の学校と完全に異なり、まず
・入学はいつでも自由
・卒業というシステムがない
だから学年とか、何年いたから卒業しなければならないというのもないんです。

そして一番の特長は

・先生がいない

こと。基本は自学自習であり、分からないことがあると生徒同士で相談するか、質問箱に投書すると、先人たちがアドバイスをくれる、コミュニティ型教育機関だったのです。先人は様々なプロフェッショナルであり、現実に即した知識を披露したようです。

これで学校経営がなりたつのか心配なのですが、どうやら地元や支援者がバックアップしていた模様。

あと全寮制、ようは住み込みですね。

例えば小学1年生でいっせいに入学して、6年生になったら全員が卒業で中学生になるというのはそもそも能力の差がなく等しかったらそれも機能します。でも実際には人間の能力はDNAが9割でバラバラなのだから、人によって3年でカバーできるひともいれば6年どころか10年たってもできない子だっていてもおかしくありませんし、実際貴方は小学生ですか? みたいなchildishな人をよく国会議員やメディアで見かけたりするじゃありませんか。つまりそういうことです。卒業とか年度とか、そもそもそういう人を年齢で輪切りにすること自体がおかしいんです。

欧米では飛び級というのがあるそうですし、大学も単位がとれればさっさと卒業できたりします。これは明らかに平等とかよりも、能力がある人は優遇されるという当然のことなんですが、日本ではへんな平等意識が、できない人、もたない人を基準に低く合わせるという状況で、それは国際競争力なくなるよと思う次第。

今は9月入学が論議されているようですが、私からいえばそれもおかしな話です。というのもそもそも、入学をいっせいにやろうということ自体が足利学校を基準とすればナンセンスだからです。そして同じように卒業を同時にやることも意味がない。

毎日入学できて、本人がマスターしたと思ったならばそれで卒業でいいのではないですか。

それを嫌がる理由は分かります。卒業証書という紙っきれに箔をつけるためです。ようは認定書なんですよね、私たちが認定したから能力を保証しますよ、というものです。これは資格ビジネスと同じで、権威化なんです。ようは権威を与えるわけですね。本来何も価値がなかったところに価値を生み出す錬金術です。

これを明治政府はまずやったわけで、それに学校が倣ったわけです。大学が日本にたくさんあるのはその結果です。だからFランといわれるどうでもいい大学が乱立し、誰でも大卒になれるようになりました。でもどうでもいい人材なわけで、大卒の価値を棄損するという悪循環になっていますが。

学習能力というのはフロー状態、いわゆるゾーンに入った状態がもっとも効果的です。いわゆる寝食を忘れて熱中する、という状態でこの時は時間も空腹も気にならない。火事場の馬鹿力も同じです、リミッター解除されている状態。ようは人は興味もたないことをやらされるのが嫌いなんです。そしてペースは人によって違うわけで、それを家畜の餌同じく、同じ時間、同じ量だけ与えられてもそりゃ吸収しきれんよって話。

だからself-directed learningなわけです。興味のある、好きなものをとことんやる。このとことんやる、というのがポイント。これを阻害するのが親、特に母親の「もう何時間やっているのよ」「ごはんの時間よ」「お風呂にはいりなさい」「もう寝る時間だから寝なさい」

これは全部その子の能力、興味をスポイルし、潰すことだと自覚した方がいいです。

寝食忘れて熱中したその集中度x時間だけゾーン状態、フロー状態になり能力を確実に引き上げます。それがレゴであっても、プラレールだっても、ミニ四駆でもプラモデルでも、絵本でも漫画でもなんでもいいんです。ゾーン状態は長くは持ちません。我にかえれば寝るし、飯食います。風呂は入らないと臭くなるのだけが唯一の問題ですが。

だから授業時間が50分ってのもおかしな話なんですよ。いわゆる集中力ってのが全員一緒なわけではないのに、ネジの大量生産と同じく40名の人間を工業製品化しようという非人道的な試みです。

休み時間なんていらんのです、本来。自由にトイレにいって、水でものんで、早弁すればいいじゃないですか。

本来、子供は探求心が旺盛で勉強は大好きなんです。その子供の探求心、勉強したい欲求をスポイルしているのが今の富国強兵をベースとしたコピペ教育だということに早く気づくべきです。文科省、教育者だけではありません。親自身も気づくべきです。

親が子供に教える、というのではありません。親も基本年をとった子供みたいなもんで、親という役割を通して、子供から教わることにより、親になっていくのですから。

よくスマホゲームばかりして困っている

とか言いますが、逆です。そこまで集中して熱中できるのであれば、それは高いフロー状態を維持できているということです。よく笑い話でありますが、こどもにゲームをさせたくなければ、

・スケジュールさせる
・目標を設定させる
・どれくらい実行できたか報告させる
・目標がクリアできなかった場合は懲罰を与える

といいます。これはまさに今のいわゆる勉強、教育でごく当たり前に行われていることですね。でもだから嫌いになるんです。

足利学校のようなself-directed learning (自学自習)がひとつの理想と思いますが、ここでよく反論されるのが、

そうはいっても諸外国の学校ではそんなことやっているところはない

というもの。まさにそれがコピペ脳なんです。自分の頭で考えてない、世界のどこかに正解があって、それを探しているだけという。

さて、うちの子にこのself-directed learningの話をしたら、

そうはいっても最初(小学校低学年)から自分で勉強できるわけはないから、基礎学力は必要

と反論されました。確かに読み書きそろばんはできないことには本も読めないからその通りですね。でもVIVITAの子を見る限り、9歳以上ならいける気がします。

そして親や教育者、大人が果たす役割は知識のコピペじゃなくて、人間教育、人としてどうあるべきかを指し示すことでしょうか。SNSで批判ばかりするような大人にはなりたくないし、真似してほしくないですよね。

学校というのは単に権威付けて認定書(卒業証書)を与える場ではなく、コミュニティとして好きなもの同士が集まって探求する場となるのが、私が考えるもっとも理想的な場ではないかと思ってます。

とりあえず今日はこんなところで。