新型コロナウイルス感染症でとたんにリモートワーク、WFH(Working from Home)がクローズアップされているが、私に至っては会社員を辞めた10年前からそれである。あちこちでzoom(TV会議ツール)でいいじゃないかという声が上がるがまあそうなんですよ。では今までの仕事は一体なんだったのか?
「峠」という言葉
ところで私の好きな場所は「峠」である。山を越えていく道が峠であるが、まさに「山」を上って、下るという意味。この言葉にはいわゆる音読みがない。なぜか? それはこれが漢字ではなく「国字」、つまり日本で作られた限られた言葉だからだ。言葉がないのはその概念がない、もしくはあまりに当然過ぎていちいち表す必要がなかったと思われる。ということは漢は峠を越えて行き交うことがなかったのだろう。逆に日本においては峠は集落と集落の境界線であり、交易の場として重要な役割を担っていたからこそそれを表す言葉を作ったと思われる。
同じように国字にある言葉で興味深いのが「働」である。これは人のために動く、という意味であり「労働」の起源となっている。一方で似たような言葉に「仕事」があるが、これは上司に仕える事である。我々は「労働に行かなきゃ」といって会社にはいかない。「仕事にいかなきゃ」という。
仕事とはまさしく上司、上長に召し抱えられ、仕えることでヒエラルキー構造を表している。主従関係がはっきりしている言葉だ。一方で働くはそうではない。人のために動くというのは、上司だけではない。目下、仲間のために働くこともあるし、給与のやりとりがなくてもよい。日本は律令制度とともに支配のためのヒエラルキー構造が輸入され、同時に仕える事が大事となった。
「仕事」とはなにか
仕事とは仕える事であるから、上長の僕としていつでもその命を受けられなければならない。ということは呼ばれたらすぐに馳せ参じなければならない。鎌倉時代では「いざ鎌倉」で馬で馳せ参じたが、江戸時代からは「旗本」で城下町に住むようになった。一番は常に真横にいるのが都合がいい。だから「仕事」は何もせずに待機している時間も含まれる。
そうなってくるとわかりやすいのが通勤である。なんでオフィスに行く必要があるのか? しかも定時に。混雑する通勤電車
にのって。それは仕える事が「仕事」であるからだ。長い通勤時間が勤務時間に含まれないのはおかしいと個人的に思う。
「働く」とはなにか
では人のために動く「働く」はなにか。これはヒエラルキーや時間とお金の取引といったものに囚われないもっと広い概念である。例えば田んぼを耕すということがあった場合、これは神に仕えているわけではないし、ましてや畑にである。畑を耕したからといってすぐさまお給料が畑からでてくるわけではない。結果として収穫として報われることになるが、それも台風や大雨など自然災害でどうなるかわからない。つまり取引ではないのだ。
親兄弟、妻子の世話をすることも「働く」に含まれる。ここでも取引ではなく見返りを求めて行う行為ではない。
なぜ人は「働く」のか。それは人を笑顔にするためである。そしてその人をみて自分が笑顔になるためである。そこに資本主義的な金銭取引とかは必須ではない。
資本主義は経済原理として取引が根底にあるから最悪だ。つまり自分の時間を金銭に変換するのが「仕事」であり「労働」となっている。いわゆる「タダ働き」を忌避する。
その行動原理は実は合理的なように見えて、非合理なのだ。というのは人間社会は取引だけで成り立ってないからだ。誰かのために役に立ちたい、力になりたい、という人間性が「働く」の根底にあり、それが行動の理由である。
だから自分は会社をやめ、仕える人がいなくなって考えた末に人のために動くこと=「働く」ことにした。組織の中で顔色を伺うこともないし、不条理を我慢する必要もない。それが「働く」という言葉を生み出した日本人の本来の姿なのではないかと思う。