サンノゼとサンフランのほろ苦い思い出 #prfm

Perfume WORLD TOUR4 でサンノゼに行ってきました。

以下Facebookの投稿を再編集して再掲載。

イントロダクション

今回なぜサンノゼ公演にしたのか。実はアメリカ初体験はここ、サンノゼだったから。当時VAIOを展開するソニーはまずアメリカ市場からスタート。SELがこのサンノゼのザンカーストリートにあった。

SIGGRAPHにパラッパラッパーのロドニーにデザインをお願いしたオリジナルVRMLを出展するためサンノゼに降り立ち、SELでVAIOを調達、ネットワークカードとHUBをフライズで買って現地でセットアップ。

SIGGRAPHはLAだった気がするが、移動はどっちかがクルマで自走。この時だったかもう忘れたけどサンディエゴも行った気がする。

昼間は運転、夜はコンテンツ制作と働いてたらジェットラグで気分が悪くなりダウン。一日寝てた。

しかも当時英語は全然わからなくて、ホテルのチェックインすらままならないし、説明員も無理難題。

体力的にも知能的にもハードだったなあ、ということを久々に思い出した。


1997年

かくして己の英語の出来なさに打ちのめされる。
英語が苦手で、むしろ嫌いな自分だが、いかんせん上達しないことには未来がない。かといって国内で勉強するかといって、業務が激しく英会話学校に行くこともままならないし、そもそも行きたくないもんだから何かに理由をつけていかない。

一方、英語の流暢な上司たち。どういうことだと聞いてみるとかなりの割合で留学してることを発見。ソニーは社内留学制度があり社内選考に受かれば一年間海外留学が出来る。この制度、大企業は比較的多く、例えばMBAなどでよく使われる。

英語が出来なけりゃ留学にも行けないのでまさにニワトリタマゴなのだが、しのごも言ってられない。

って事で半泣きになりながら英会話スクールに通い、社内選考試験を受ける。語学力は21名中16位と案の定芳しくない。実際に行けるのは10名以下だ。

そこで上司の推薦を取り付け、面接で張り切って何とか受かる事が出来た...

って書いてて思った。これ、なんか息子の受験に似てるような気がしてきた。親子一緒だったか!

それはともかく、無事留学に行ける事になったが、留学先は自分で見つけて来なければならない。研究者やMBAなら定番のMITやスタンフォード、ハーバードでよく、しかも向こうも手馴れたもので企業向け窓口があり、費用も決まってるから簡単。

ところが自分の場合インターネットサービスとかVRだったものだから丁度良い大学、学科が見つからない。

苦心した結果、ITP/NYUを見つけ、メールして打診するも返信がない。他カナダ大も送ったが、こちらは指導教授がサバティカルでいないからと断られた。この時始めてそんな制度があることを知った。

時間だけは過ぎていき、留学一年前には行き先を決めなきゃいけないのになかなか決まらない。ようやく返信が来て受け入れてくれることになったがこれからがまた大変だった。

なんとITPはこれまで企業からの留学生を受け入れたことがなく、つまり前例がないので学内すったもんだだったらしい。

1999年

次にすったもんだしたのが留学費用だ。

それまで本社の研修費用で賄っていた留学費用だが、制度が変わり事業部持ちとなったのだ。事業部はコストセンターなので、直接アウトプットのない人間に給与だけでなく留学費用を出すというのは嫌なものだというのは、今であればよく理解出来る。

NYUはMITやスタンフォードと同レベルの年500万円をオファーしてきたが、それをディスカウントする交渉をしろと上司。勿論担当は私自身。

結果半額の250万円にすることに成功。ところがこれを上司に報告したら、現金は出したくないからソニー製品の現物支給にならないかと言い出した。

え、そんなんありなの?

なにせVAIOの部署である、PCならいくらでも出せるし市場価格が25万円でも原価は知れている。ここでコスト圧縮しようという腹だ。

仕方なくオファーしたものの、とうぜん相手はいい顔をしない。そもそもPCはインテルから無料で提供されてるから要らん、との事だった。

結局交渉の末、相手の欲しいという40万円位のDVハンディカムと、130万円位の大型液晶プロジェクター、そして現金100万円で手打ちとなった。

ハンディカムとプロジェクターは留学時ハンドキャリーで持込。ただハンディカムは日本仕様のものでメニュー関連全部日本語。相当使いにくそうだったけど私に聞いても英会話がままならないので、テプラみたいにシールを貼って対応してた。

とにかく英語のできない自分はなんとかニューヨークに降り立つことになった。

2000年

場所は人種のるつぼと呼ばれるニューヨーク。留学してまず入ったのは語学スクール、といっても大学のESLである。週二回、三ヶ月で12万円位だったと思うが留学特典で無料だった。

いってみると当たり前だが、外人しかいない、これが日本国内の英会話スクールとの違いだ。

メキシコ、フランス、ナイジェ、ロシア、台湾など。

とにかく奴らはよく喋る。しかしその英語は誰もが無茶苦茶。なにせ三単現、冠詞はないし、過去形、過去分詞は全く使わない。小テストでは必ず私がトップで、先生からはミスターグラマーと呼ばれた程だ。しかし喋れない。

そして街中に出ても同じである。タクシーの運転手、店主、全員が適当なオレオレイングリッシュである。タクシーで行き先のエリザベスストリートが通じず、10分間ずっと発音を変えてトライした結果、

おー!イザベーラ!

って理解してもらった。

そんなこんなで分かったのは、英語はテキトーでも喋っていいということ。どうしても正確に、文法として正しくなければならないという強迫観念が植え付けられたのがネックだったが、周りのオレイングリッシュで気持ちが救われた。

そして滞在半年で英語の夢で英語で受け答えした頃から少し話せるようになった。

別のクラスでは日本人が7割もいてみんなまた上手なのよ。クラスみんなで飲みに行くのだけど、一人でも外人が居ればとうぜん英会話。そうすると日本人同士でも英語で話すのが普通になって、酒も入って声も大きくなる。みんな日本語訛りだから聞き取りやすいし、言語レベルも同程度だからわかりやすい。下手に分からないネイティブの英語よりも勉強になったなあ。

そうして過ごした留学、そこそこ英語ができるようになり帰国前に旅行に行ったのがロス、SIGGRAPH再び。

あの時出来なかったレンタカーやホテルでの受け答えができるようになっただけでも、自分的に成長を感じた。

え、ほろ苦くないって?

苦いのはこれから。

2002年~2003年

NY留学も終わり、さあ帰国と思ったら911勃発。空港閉鎖になり帰りが10日間ほど伸びたのは余談、911の時本当にマンハッタンで何が起きてたかはまた別の機会に。

さて帰国後、というか帰国間際に社内というか部署で騒動がありそれに巻き込まれた形で異動。ネットワークサービス部門へと移る。そういえばその前後、別件で私が問題を起こし「懲戒委員会」にかけられて始末書かかされたっけ。

それはともかく写真共有サービスのスタートアップを(高いお金で)買収したものの、サービスの出来はイマイチ、コストは高い、そしてソニーらしさを追加するために「シナジー」とか、ソニーワールドとか、なんとか連携とか、とにかく繋ぎたがった。このプロジェクトのリーダーを務めることとなったのだ。

ところがこれが苦難の始まり。

ステークホルダーは多く、調整不可能。部署間がいがみ合い、罵倒しあうミーティングに遭遇し、っていうかもう制御不能。マネージャーはメンタルやられて病院送り。

そんなさなかにサービスとサーバーを巻き取るために乗り込んだのがサンフランだったのですよ。

たった2日の出張なのに英語でずっとミーティングでハードネゴシエーション、っていっても相手は全然ひかないし、聞く気もない。自分の英語力不足を当時は呪ったけど、今考えてみればあれ、日本語でも調整不可能だった。

結局このサービス、ゼロから作り直し、サーバーは日本に移転して設置。

私もマネージャー同様疲弊して戦線離脱、病院送りにならなかっただけマシ、という状況だった。

2004年

疲弊して戦線離脱したあと、最終的には部署コストカットのため他の部署に異動。その後出向することになる。

出向先は某ゲームプラットフォーム子会社で、こちらは目下炎上中だったHDレコーダーのファームウェアサーバーの開発。アメリカの部署が開発していたが、コストが高いのとプログラム開発の遅延から日本側が巻き取ろうとしていた。

嫌な予感はしたが、その予感は的中。

テレカンではのらりくらり、蕎麦屋の出前のような開発遅延に業を煮やして現地に乗り込むが、針の筵。相手も協力するポーズをみせつつも、当然いい顔はしない。ここでも英語でのハードネゴシエーションっていうか、ほとんど喧嘩腰、相手が。

ここでもサーバーを日本側にもってきて、プログラムはゼロから新規開発。どっかで聞いたような...

その場所がフォスターシティで、ご飯食べによくサンマテオのタイ料理屋に通っていた。

ちょうどブログが流行ってきており、ちょうど人を募集していたのでブログの会社に転職することに決める。

ところがこれもまた苦難の道のりのはじまりであった。

2005年

サンフランベースのブログソフトウェア開発会社に転職し、担当したのはローカライゼーションとオペレーション。

これまでと違うのは本社がUSで、日本は子会社(ブランチ)ということ。また大企業相手にソフト・サービスを納入する業者でもある。つまり大企業から一気に下請けに転換したのだ、まあそれはいいとして。

よくないのは外資系あるあるだが、とにかく本社が絶対で、ガバナンスをきかせようとすること。

日本の大企業からは使いにくいからここをこうせい、ああせいと言われ、本社にいったらうるせえ、って言われて板挟み。見事な中間管理職を演じることとなる。

あるとき5週間の長期出張で、開発体制をマージしようとしていたが、その時色々と日本の意見を社長とマネージャーに具申したら、社長にこう言われた。

Do you know what my title is?

あー、英語できてよかったー、よく聞き取れるわー・・・って、ちょ、これ、次のセリフは映画でよくみる、アレだよね、アレ。

You're fired!!

幸いなことにそこまで言われなかったけど、まあそういうことである。

(ちなみにその時言われたのは、 you don't reflect my idea)

日本側にはヘタレと思われるし、もう散々。

そう、散々な思い出が詰まっているのがこのサンフランなのである。

っていうか、振り返るとまったくいい思い出ないじゃん!

なんかサンフランにくるとダウナーになるなあと思ったら、理由は明快。でもカルトレインにのってサンフランにつくまで忘れていたよ。

忘却は人間に備わった才能。AIにも実装すべき。

(終)