わたしとホンダ #ホンダバイク

(Facebookにアップしたものを再構成してお届けします)

その出会いは大学時代に遡る。空前のモータリゼーションブームが到来したバブル前夜の大学生。友人たちは高価なマイカーやバイクを乗り回し、自由を満喫していた。


貧乏学生なわたしは免許すら取ることも出来ず、その彼らに小判鮫するしかなかった。

コンピュータしか取り柄のなかった私はコンピュータ雑誌のアルバイトで貯金をし、計画を練った。それは家を出て一人暮らしをし、普通免許を取得するものである。

今以上にせっかちで激情家だった私は親子喧嘩を機に家を飛び出し都内に下宿を始める。

都内は便利といってもバイクがあれば夜中でも自由に移動可能だ。原付を買うことにした。

とはいえまだ免許はない。

そこで一夜漬けで原付免許を取りに二俣川へ。
そして上野のバイク街に原付を買いに行く。

原付は当時競争が激しく、ツーストのスポーツモデルが各メーカーで凌ぎを削っていた。

ところが過熱するスピード競争にブレーキがかかり自主規制、最新モデルはパワーダウンして5速にスペックダウンする。

今以上に向こう見ずでスピード狂だった私は勿論規制前のモデルを狙う。

その中で私が選んだのはMBX50。

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スピードメーターは90km/hまで刻まれ、制限速度の30km/hから90までレッドゾーンという謎メーター。

規制前のバイクは相場が高く、良いタマもない。

その中で予算の都合で買ったものの、上野から下宿のある中野坂上まで都内を運転できる自信がない。

なにせ免許はあるものの、一度もバイクに乗ったことがないからだ。

もちろんミッションの操作なんて、本で読んだことしかない。

そこでバイクに乗る友人に無理を言って来てもらい、上野からまず駒場に持って来てもらった。

何故駒場かというと空き地がありそこで練習できるから。

空き地で一時間ほどミッションの練習をし、そこから出たのが狭く交通量の多い山手通りである。

ハイパワーツーストあるあるで下はスカスカ、パワーバンドは突然ドッカンと、素人にはオススメ出来ないじゃじゃ馬に翻弄されながらもなんとか下宿にたどり着き、私のモーターライフは始まるのであった。


私とホンダ 第2章

念願の自由の翼を手に入れた私は都内を駆け抜けた。90km/hメーター振り切りを目指し、いつでも全開全開。

一週間後、雨の日の市ヶ谷の交差点、横断歩道のペイントに前輪を滑らせ転倒、レバーを折る。白線が滑りやすいなんて知らなかった。

藤沢の田舎道。メーター振り切りを目指して走っていたら、横から突然のクルマの飛び出し。

びっくりして急ブレーキしたら握りゴケ。半袖、ノーグローブで手足をしこたま擦りむき、血だらけ。なんかステムがガタガタしてる、どうやら事故車らしい。

市ヶ谷の自衛隊前。ほかのバイクと一緒に走っていたら突然のサイレン。振り返っても何もいない、と思ったら背後に白バイ。

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そう、原付は30キロ制限だから、簡単に捕まえられる。

国道一号線。流れに乗って走ったら今度は白黒パトカーに捕まる。狭くて流れの早い国道一号で30キロで走っていたらかえって危ないと主張したが、そこはヤクザな神奈川県警。そんなことは知らん、と取りつく島もない。

立て続けに取り締まりにあい、原付は走ってるだけで捕まる事を理解。

原付はダメだ、自動二輪にしなければ。

そして祖母から貰ったお年玉で教習所に通うことにした。


私とホンダ 第3章


二輪の教習所に通うのにMBX50で行っていたが、教習車はホンダVFR400K。あまりにも車両重量、運転特性が違いすぎかえって運転しにくいので既に四輪免許を取っていたので家の車で通う。

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教習車がCBだったから、CB人気、ベストセラーとなっているが、私はそのインプリンティングが無かったのはこのせいか?

普段クルマも原付ミッション車ものっているから教習自体は問題なく、重さとパワーに慣れるだけ。

しかし周りは初二輪の素人ばかり。外周路を走っているとインフィールドのクランク路から突然無人のVFRがおっ立ちながら外周路にジャンプしてきた。

電人ザボーガーか?

と思う間も無く、当然そのまま倒れた。

インフィールドのクランクを見ると、バイクに乗車しているスタイルのまま硬直してる女性が一人。

教習終了後、教習内容をきちんと修了していればハンコをもらえるが、その子は

はい、免許取ってものらないでね!

って言われながらハンコ押されていた。

いいんかい!?



私とホンダ 第4章

念願の二輪免許をとったものの、オートバイを買うお金はない。そのまま原付MBX50に乗り続けていた。

下宿をしているからお金がないのではないか?

と気付き、改めて実家に戻り、その浮いたお金でバイクを買うことにする。といっても実際には先立つものがないので、親からお金を前借りした。

季節は初夏。バイク雑誌をひらくとどの雑誌も北海道特集、北海道ツーリングである。当時は「カニ族」といわれる、大きなザックを背負って鉄道で回る種族が主流だったが、好景気とバイクブームを背景に「ハチ族」と呼ばれる、バイクを乗り回すライダーが勢力を伸ばしていたのである。

よし、北海道に行こう!

当時北海道は今ほど舗装されておらず、砂利道や林道が多かった。そこで丁度新発売になったホンダのデュアルパーパス、AX-1が目に留まる。

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オフロードのデザインでありつつもオンロード走行を主眼にして設計されたAX-1はタイヤサイズは小さく、足つき性がよく、軽量コンパクトな車体に新設計の水冷DOHC250cc 4バルブエンジンを搭載、実に29馬力を誇った。

他のオフロード専用車が空冷、OHCだったのと比べると画期的で、もちろんパワーも段違いである。実際その車重の軽さとギア比の低さで250ccレーサーレプリカと同等以上の加速を魅せた。

スペック厨で全開バリバリの野間少年がそれに飛びつかないわけがない。

そうして青いAX-1がやってきたのであった。



私とホンダ 第5章

いよいよホンダAX-1で北海道である。ホンダNS400Rにのる友人を誘い、キャンプツーリングしながら約10日間~14日かけて北海道を一周する計画だ。さらに高校同期も2名、トヨタマーク2で途中合流する。

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まず向かったのは東京のフェリー埠頭、そこから釧路へと向かう。温度は実に33度。半袖Tシャツでも蒸し暑い。そこから33時間、フェリーの中で2泊をして釧路へと上陸する。

太平洋を走るからだろうか、それとも台風のうねりの影響だろうか。実に揺れる、というかその後フェリーに幾度とのったが、あれほど揺れたことはない。

どれくらいかというとお風呂があるが、湯船に半分しかお湯がないのだ。

お湯をケチっているのではない、横揺れによりお湯がざぶんざぶんとこぼれてしまってそれしか残ってない。

その激しい揺れにより船内の7~8割はグロッキー。雑魚寝の2等船室はほぼ満員だが、ほとんどみんな唸りながら横になっている。

大食家で有名な友人と昼食をとろうとレストランに向かい、友人はカツカレー、私は刺身定食を注文。ところが運ばれてきたのをみた瞬間、友人が

「ごめん、オレ、無理」

船酔いの吐き気MAXになり戦線離脱。テーブルにぽつんと残されたカツカレーと刺身定食。そこに

「相席お願いしまーす」

と他の家族がやってきた。その家族の前で仕方なくカツカレーと刺身定食を食べたのだが、どれだけ大食家なのかと思われたことだろう。後にも先にも2人分たべたのはこれが最初で最後である。

33時間の航海を終え、釧路に到着。はやる気持ちを抑えきれず、デッキの中でみんなエンジン始動、暖機運転。

排気ガスそのままだった時代に2st全盛期。密閉されたフェリー内部は排気ガスで充満、目がちかちか、頭くらくら、誘惑光線キラッである。

そして釧路に上陸。

最初の感想。

「さむっ!」

そう、東京が33度だったのが、釧路は15度くらいだったのである。Tシャツどころか、用意していた長袖シャツではまったく役立たない。

速攻で長袖トレーナーを買い、雨具を着込んで凌いだが、とにかく寒い寒い。

そして納沙布岬に到着、北方領土を眺めながら吐く息の白さと寒さにめげてそこで討ち死にキャンプ。



私とホンダ 第6章


とにかくホンダAX-1は素晴らしかった。北海道の砂利道も、舗装路も。道を選ばず行きたいところへいけた。

その癖でついNS400Rの友人を吹上の湯への砂利道に誘い込んでしまったのは申し訳なかったが。ちなみにここはもう舗装されてある。

北海道から帰ってきても、神奈川の林道を走ってみたりとオートバイライフを満喫していた。

そんな秋、終わりは突然だった。

友人宅でいつものように徹夜でゲームをして明けた朝。KMX200に乗る友人と食事に出かけた道で、事故にあう。

軽自動車と正面衝突。大腿骨骨折(複骨折、粉砕骨折)。

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(写真はイメージ。実際にはさらに釘の数が多かった)

大腿骨を折ったら痛さの余り失神するというがそれは嘘だ。とにかく痛くてもがいた。救急車が来るまでの時間はながく、着いてからもなかなか運ばない。受け入れ先病院を探していたのだろう。そして救急車はそんなに速度を出せない。病院につくまでの間、痛さで七転八倒。

病院の話は色々あるが、まとめるとこうだ。大腿骨骨折で手術入院、2カ月で退院して半年後に金属プレートを取り出すために再入院3週間コース。

理系は実験出席が必須なため、2カ月入院で即留年決定。

私のバラ色のバイク生活は、己の未熟さであえなく燃え尽きたのであった。

親からは烈火のごとく怒られるかと思いきや、特に何も言われず。しかし後で妹に聞いたところ、

「野間家二輪禁止令」

が発布されたそうだ。それもそうだろう、弟は自転車で跳ねられ意識不明の重体を数年前にやっており、それに兄が大腿骨骨折では、野間家存続の危機だ。

かくしてその後、二輪禁止令は四半世紀に渡って続くのであった。



私とホンダ 第7章

二輪は野間家の性格に合わない、危険である。

兄と弟で実証されたために発布された野間家二輪禁止令。これによって影響を受けたのは実はわが息子である。

息子はそんなこと知らずに乗り物好きになり、当然物心ついたころには

「パパ、自転車かってーー」

というはずであった。しかし。

物心つく前から野間家は二輪禁止である、と言っていたため、彼は自転車を買うことができないだけではなく、公道で乗ることすら許されなかったのである。

しゃーない、だって死ぬもん。

実際クローズドコースでの彼の全開バリバリっぷりは野間家の血統をそのまま引き継いでおり、自制心のない幼少の野間プリンスは公道の特攻兵器みたいなもので、どこに自爆するかわかりゃしない。それに少子化問題で、野間家にはもう彼しか残されていないのである。そりゃ保守的にもなろうというもの。

ただこの二輪禁止令、息子だけではない。親も自転車を含め、二輪禁止なのである。

だってそうだろう、親が乗っていたら子どもに示しがつかない。模範を示すためにも公道二輪禁止は家族全員が守った。

そして月日が過ぎる。

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公道二輪禁止なだけで、クローズドコースは二輪OKである。そこで操作法とルール順守を叩きこんだ。分別がつき、大人のいうこともきくようになった。そして公道の危険性も自分でよく理解できるまで成長した。

時は満ちた。

ついに公道二輪解禁の日が来たのである。

息子は11歳になっていた。デビューおっそ!

野間家二輪解禁。

ということはつまり・・・私も乗っていいはず。


私とホンダ 第8章

二輪解禁となったとはいえ、すぐさまバイクを買ってリターンしたわけではない。重大な影響を及ぼした人がいる。

彼女はブロガーとして古くから知る友人であったが、まったく乗り物に縁がなかったはずだった。その彼女が突然二輪免許をとり、突然クロスカブを買い、突然東北から一路沿岸ツーリングを始めたのである。

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小型バイク「HONDA クロスカブ」 - 小型バイクで走る日本一周沿岸ツーリング

衝撃的だった。

いやだって、そうだろう。大の大人がやろうにも準備も実行も大変なのに、それまで興味すらなかった女性がやっているのである。

いやちょっと待ってくれ。この25年間のブランク、二輪恐怖症がある自分は男性で、いい大人を通り越してオッサンである。リターンするのにためらいというか、怖気づいているのを横目にスコーンと飛び込んでいったわけだ。これは負けていられない。

ということでリターンを決定、とはいえいきなりバイクを買って乗り回すのも不安だ。

そうだ、教習所へ行こう!

大型二輪は昔は試験場でしかとれないステータスであったが、今は中型と同じく、お金さえ払えばとれる。せっかくなので大型二輪免許をとれば、実技の練習にもなるし一石二鳥。

ということで、妹が昔通ったという教習所へ。



私とホンダ 第9章

なにせせっかちなのは直ってない。免許がとれたらすぐにバイクに乗りたい。どうせなら、というか当然大型二輪、オーバーナナハンが欲しい。

しかしお金はないし、体力もない。センスもない。

そのため乗りやすいバイクにしたい。そこで各メーカーサイトを除いたら愕然とした。昔あったあのバイクもこのバイクも、全部なくなっている。

AX-1はもちろん、NS400Rのような2stもない。さらに値段が高い。

大人だし大型なんだからこれを機にBMWだろう、と開いて価格をみた瞬間にそっ閉じ。なんだよ、日本車の倍じゃねーか、日本人なら日本車のれよ日本車!

ってことでホンダのNC700に目を付けた。乗りやすく、燃費がいいうえ、ダミータンクは大型収納で使い勝手もいい。しかも教習車がちょうどNC700K。これで練習して公道デビューも悪くないな、値段も手ごろだし。ツアラータイプのNC700Xはデザインが好み。

しかしだ。

25年ぶりの二輪の壁は厚かった。

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重い、でかい、曲げられない。

これまで一度も落ちたことのない一本橋は落ちまくる、右Uターンはできないと、苦心惨憺。

それでもなんとか落とすことなく卒検へ進んだ。卒検で一本橋から落ちると検定失格となるため、秒数など完全に無視し、誰よりも速く駆け抜けた。

そのかいあって無事大型二輪免許を取得。

しかしこの時のおもい、でかい、曲げられないのがネックとなりNC700(NC750)は候補からおち、リターンバイクは他社製となってしまったのだ。


私とホンダ 第10章

バイクが1だーい、2だーい、3だーい...

不思議である。番長皿屋敷の皿のごとく、バイクが増えていくのである。しかしなぜかホンダがない。あれほど愛したホンダが何故ないのだ。

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何度やっても、心動かされる車種がない。なんというかこう、ビビっとこない。あのMBX50やAX-1のような、スペックであり、デザインであり、ソウルが伝わってこない。シンクロしないのである。

そんな年末年始。ある企画が目に留まった。それは大晦日、宗谷岬にバイクでいくというものである。

もはやツーリングの域を超えた冒険。エクストリームなチャレンジである。

もともとバイクはバカしか乗れないと言われているが、その中でも相当ネジが飛ばないとマイナス10度の世界、地吹雪の中、日本最北端の宗谷岬に行こうなんて考えないだろう。

しかしその宗谷岬に何十台もバイクが集まるという。しかも毎年来ている人も多い。

これは間違いない、そこにしかない何かがある。その何かが知りたい。行ってみたい。

人生は限りがある。

今日できていたことが明日、できなくなる。

事故は突然だが、加齢による病気も突然である。
後悔を残していいのか? いやそんな人生はつまらない。もしやってみたいと思ったら、やるのがいい。いつやるの?

今年でしょ!

いまのバイクでいけるの?
ムリムリ!

なら買ってこなきゃ。

そして4台目を買うことになった。


私とホンダ 第11章

バイク選びはいつだって楽しい。ウィンドウショッピングがあるように、ブラウザショッピングである。goo bikeを開いたり閉じたり開いたり閉じたり。

新車ラインナップに限りはあるが、中古車であれば選択肢は広がる。ただ自分の好みは偏っている。偏っているから似たようなバイクばかりになる。しかし今回の目的は宗谷岬だ。宗谷岬に最適なバイクはなにか? この際デザインは二の次だ。

冬の宗谷岬の定番は125ccクラス、カブ系である。理由はスパイクタイヤが販売されており入手が容易だからだ。また足つき性が非常に重要なため、オフロードバイクでも車高が低い方がベターだという。

最初の候補はスズキ・バンバン200

足つき性がよく、値段も安い。

次の候補はヤマハ・TW225

キムタクがドラマで使ったことから特に人気モデル。しかしその影響で相場が高く、安いものは過剰なカスタム、過走行車、そしてノーマルは高い。

そしてホンダ・FTR223

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上記モデルがナローなフロント、ファットなリアタイヤという定番な組み合わせに対し、フロントリアとも同サイズでフロントは太く、リアは細く見えるというちょっと中途半端なもの。

そのため人気もさほど高くなく、相場も安定、タマ数も多く、低走行車も選びやすい。

極寒の地を考えたとき、トラブルは致命的だ。本当に生死を分ける可能性もある。

そのためノーマルで低走行車、エンジンのかかりやすいセル付きはマスト条件。本当はキャブよりもインジェクションが良かったが、このクラス・年式にはまだインジェクションが導入されておらず、どれもディスコンになっていたので仕方がない。

そしてgoo bikeを開いたり閉じたりしているうちに巡り合った1台。

それがこの青いFTR223だったのだ。

きたー、リターンホンダ!


私とホンダ 第12章 ~最終章~

25年ぶりのホンダはFTR223。

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決めてはフルノーマル、走行たったの421km。えっ、ほぼ新車じゃない! タイヤもばり山、髭ぼうぼう。

そしてブルーメタリック。昔のっていたAX-1を彷彿とさせる明るいカラー。

ホンダドリーム店で購入すると充実保証。納車整備でエンジンオイル交換、プラグ交換、キャブレーター清掃に加えバッテリーまで交換。さらに3カ月5000キロ保証、1年間のロードサービス無料。

すごい、この充実っぷり。

試乗したこともなく見て買ったけど、乗り味は空冷単気筒OHCっぽい、乾いた感じ。抑揚はなく、パワー感もないけど、とにかく乗りやすい。軽い。気楽。いい天気に誘われて湖まで慣らし走行。

早速フロントフォークからオイル漏れが発覚したけど、保証対応。やっぱちゃんとしたお店でかうと安心ですねー。現状渡しの激安店とは大違いw

さあ冬の宗谷岬に向けて、ゆっくりと準備して行こう。

~終、そしてスタート~

B07511DSRX