「戦争」という言葉の定義

(本来は8/15までに公開予定でしたが、時期を逸したのでそうかえんに合わせて公開)

昔留学していたところのクラスの最初の時間。突然教授がこう言いました。

「(なんとか)という言葉ってどういう意味だ?」

diary of Jan. Feb. and March 2001

Public Multimedia Space たまにはとっている classの紹介。これは「Public」な「Space」を「Multimedia」で表現するということを考える class。まずいきなりそれぞれの言葉の意味、What's "space", What's "multimedia", What's "public"についてのdiscussionをはじめた。言葉の定義、というよりも students全員の共通概念を作ることからはじめたのは非常に興味深い。 というのも、言葉というのは非常に難しく、同じ単語を言っても人と人とで考える例や、意識が違うことがあるからだ。

例えば「橋」といったときに、丸太橋なのか、レインボーブリッジなのかは大きく違う。お互いに同じ「橋」の概念を持たないことには成り立たない。

そういえば「結婚」という概念もそうなのかもしれない。男女間でのよくすれ違うテーマであるが、これも一つの言葉の定義の問題である。

言葉の意味を関係するクラス全員で改めて共通認識、共通概念化する作業を最初に行い、その後の課題となる Public Multimedia Spaceの実装を揺らぐことなく進めていた。

みんなのいう戦争って?

昨今多い「戦争」論議。

「戦争になる!」

「戦争にいきたくない! 戦争にいかせたくない!」

などなど。安易に「戦争」という言葉が巷にありふれている。しかしここで改めて思うのはみんなのいう「戦争」って言葉、は本当に同じ意味、同じことを指しているのだろうか、と。

戦争体験の乏しい日本人

戦後70年、ということでおそらくみんなのいう「戦争」は日本人が最後に体験した太平洋戦争のことをいっている、ようだ。太平洋戦争とは第二次世界大戦の中のひとつの戦争であり、世界中が戦争状態になった時のもの。特に日本は戦争末期は「総力戦」といって、軍隊だけが戦う「武力戦」では不足、国民まで巻き込んで、文字通り「総力」を使った戦争となっている。

日本が行った戦争行為は太平洋戦争だけではなく、その前には日中、日露戦争がある。簡単にいうと日本人が知る国際的な戦争体験とはそれ位で、太平洋戦争に向かうのは日露戦争の戦勝ムードがまだ残っている状態。そのため「戦争とはやれば勝つもの」という思いこみがあり、負けることを想定していなかった。2.26事件が国民に支持されたのもこうした背景にマスコミが煽ったからであり、一気に戦争へとなだれ込んでいく。

その結果コテンパンにされて、国民自体がその後生活に困窮することでツケを払うこととなるのだが。

戦争の新しい形

日本が想定する戦争の形は、あの太平洋戦争で、そもそも兵站もろくにないまま戦線は拡大して、その乏しい兵站を全部アメリカの潜水艦に通商破壊されちゃうし、結果総力戦で国民総動員かかるわ、特攻はあるわ、玉砕だわ、それでもダメで結局本土空襲はされるは果ては原爆まで落とされるわけで、まあほんとヒドイもの。

日本における戦争は国民の命も民族の誇りもズタズタという形で1945年に集結したわけだが、実際の国際社会はその後も戦争は続いていて、第二次世界大戦は通過点に過ぎない。共産化の流れが加速し、ソ連・中国 VS アメリカ・ヨーロッパの対立構造が朝鮮戦争を生み、その後の冷戦構造へとシフト。

アメリカにとって太平洋戦争ってのは、彼氏でいえば、前の前の前の前の、いつの彼氏だったっけ? というくらい前の話でほとんど忘れてる。アメリカ国民レベルでいえば、日本と戦ったことや、原爆落としたことすら知らないほど。

朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガン戦争、イラン戦争などなど。そして今ではテロとの戦い、という名の戦争状態である。

アメリカはこんなに戦争しているのに、第二次世界大戦から現在に至るまで、アメリカ国民が空爆されたり、総動員かかったり、食料が配給制になったこともない。国民の生活の安定、つまり平和と戦争は表裏一体で切り離せない。

しかしその国民の平和が初めて脅かされた事件が起きた。それが9.11である。

それ以来「テロとの戦い」が明確に宣言され、事前に危険を排除しようと様々な活動を常に続けている。

これからの戦争

しばしば平和を享受するためには戦争しないことだ、みたいな論理があるが、これは論理ではなく情緒的、そうあってほしいという願いである。なぜなら表裏一体で切り離せない存在だからだ。

日本が戦後70年も不戦で、平和を謳歌していた一方、世界中は混沌とし、戦争は地球の裏側で起きていたことが事実だ。これは元々アメリカによる占領、その後アメリカの庇護下によって国際社会への復帰、その裏には自衛隊の設立と日米安全保障条約がセットとなっている。

憲法論議があり、その崇高な理念と字面に賛同はするが、現実問題として自衛隊、self-defence-forceが存在し、日米安保の上に成り立っている。9条があるから平和憲法、なのではなく、安保があるから誰も日本に手を出せなかっただけの話だ。

集団的自衛権が論議されているのは、すでに日米安保に胡坐をかいているわけにはいかないという国際情勢の変化が訪れているからだ。つまり相対的にアメリカが弱体化している。強大化しているのは中国なのは言うまでもない。

明治時代の再来

現状の国際社会、国内情勢を見ていると、きっと明治初期はこんな感じだったのだろうな、と思う。それまで江戸幕府が鎖国政策によって国内情勢だけで平和を享受できたのに対し、黒船来襲、突然の国際社会への投入、領土拡大、植民地化の危機にさらされ日本は大きく二分された。江戸幕府はすでに軍事的に強大ではなく、倒幕機運が高まり、結果として平和的に大政奉還が行われた。

明治政府が樹立してからの方がひどい。

戊辰戦争に西南戦争と大きな内戦が起こり、その溝は未だにひきずっている。日本は簡単にいうと、幕府派か、新政府派かに二分されているといっていいだろう。

当然のことながら、現在の政府は新政府の流れを引き継いでおり、その政策「富国強兵策」を堅持している。

現政権が経済と安全保障に力をいれるのは、現在の国際社会が明治時代初期と同様、経済的、軍事的に日本を危機にさらしていることを認識してのことだと理解している。

そう考えると現政権が個人的な感情や論理で動いてるというよりも、入れ物、器として、これまでの明治政府から連綿と続く新政府のやってきたことを踏襲していることに過ぎないと思うわけだ。特に政治家一族で生まれ育った2世、3世議員がほとんどの議会をみれば、それは仕方ないことだろう。ある意味宿命である。

不変の日本人気質

面倒なのは日本人、特に庶民である。いまでいうところの国民、有権者。

国民は近視眼的で、表層的で、忘れっぽい。これが問題である。せめて日露戦争まで覚えていてくれたなら、そして冷戦構造を理解してくれていたなら、もう少し戦争議論も有意義なものになるのに、残念である。


以下、未完のメモ

ーーーーーーーーーーーー

・民主革命

武官と文官

軍事政権

ネット社会で思想表現の自由が広まった

危険を排除する思想、先制攻撃

戦争へいけ>武官>軍事政権

代替戦争として。高校野球、サッカーワールドカップ、オリンピック

学校教育そのものが軍事教育に端に発している。グラウンド、準備運動は軍事教練そのもの。運動会もなくすのか? 給食もなくすべきか?