「バケモノの子」に見る、父性と野性の復権


サマーウォーズ、おおかみこどもの雨と雪の細田監督最新作。今回も何も前情報を調べず、たまたま通りかかった映画館でたまたま上映15分前だったのでフラッと見てきました。

「バケモノの子」公式サイト

するとなんとまあ、この映画、前作「おおかみこどもの雨と雪」と対になる作品じゃありませんか!

「おおかみこどもの雨と雪」に見る、絶望的なまでの父性と野生の喪失 - のまのしわざ

これは俄然やる気になりますよ、だってテーマは「父性と野性の復権」ですからね。

ということでネタバレあり、ご注意を。















前作で絶望をし、菅原文太(父性と野性の象徴)を取り戻せと締めくくったのですが、今回はまったく逆、母性を一旦排除して、とことんまで父性と野性について向き合ったのですから。

なにせお母さん、登場せずに最初から鬼籍に入っちゃってますからね。交通事故で死んで、本家に引き取られるのが嫌な子供(蓮)、9歳が主人公。でまあ家出して、渋谷の街に迷い込んでいるうちになぜか裏世界、バケモノの街に迷い込むという設定。やはりファンタジーです。

そのバケモノの街での宗主争いに名乗りを上げた熊徹(くまてつ)、という頑固で不器用な男は一匹狼。その熊徹が人間の子供を弟子をとり、稽古をつけるというのでまあ「ベストキッド」? な感じかと想像したのですが、さにあらず。

「強くなりたい」という動機づけは論理性があまりなく、単純に一人で生きていけない9歳の子供が導き出した、単純な生きるための本能的な答え。そうです、社会、家庭という後ろ盾を失った彼はアフリカの大地に放り出された草食動物と同じ。弱肉強食の世界で生きて行くための唯一無二の方法が「強くなること」だと考えれば自然というものでしょう。

なのであまりこのへんの合理性はなく、ただただ弟子をとりたい熊徹と、生き延びたい子供の利害が一致しただけの話。どちらも別に何もそれ以上、それ以下の関係を求めていません。そこが実は大事なポイント。

熊徹はいかにも昭和の男っぽく、不親切、ぶっきらぼう、粗暴、短気、喧嘩っぱやいときたので人気がありません。で今回見事に排除したのが異性、普通はこれに女にだらしがない、ギャンブル、酒癖が悪いというのがセットになるのですが、擬似親子関係を構築するためには不要な要素だったのでしょう。この部分は一切なくしていることで、野性味よりも父性にクローズアップすることに成功しています。

同じ父性でも異なるアプローチがあり、それがまず子供の実の父親。

実の父親はというと、10年以上も子供と離れていたので、もはや他人も同然。そして野性味はゼロ、どっからどうみても草食系のよいおっさんです。離婚した割には、これまた女の影のかけらもないし。

そしてライバルとなる猪王山(いおうぜん)。冷静沈着、感情をコントロールし、懇切丁寧。弟子たちからの信頼も厚く、いつも多忙で子供には構ってる時間がない、とまあ会社人間っぽいですな。

この3タイプの父性を描くことで、父親とは何か、というのを説いているわけです。

子供は育ての父・熊徹と、実の父との間で揺れ動くことになりますが、実の父に実際には「父性」は求めておらず、社会とのつながり、戸籍や住民票が必要という観点での弱いつながりにすぎません。社会に参加するにはまず家庭からですからね。

その戸籍、住民票が必要なのは、向学心が芽生え大学に行きたいと思うからで、そもそも「強くなること」に対してさほど理由がなかったわけで、生き延びられたことを考えたらもう修行に鍛錬する必要もないから、簡単に止められるわけです。

もう一つ重要な役割が父性にはありました。それは社会の窓、ということです。家庭というのは社会に参加するための一番小さなユニットですが、家庭内には親子という甘えが許されます。しかし社会は家庭というユニットの集合体であるために、もっと厳しいルール・法律があります。その厳しいルールを家庭内に持ち込むのが父性の役目です。これは将来子供が家庭から社会に出ていく、その時のために必要な通過儀礼。ですから父性は国内だけではなく、国際、社会といった目線を養う必要があり、昔から新聞を読んでいる姿が描かれるのはそのためです。まあ最近新聞はアテになりませんけどね...

宗主が熊徹に弟子をもて、といったのは実は同じ意味あいがあり、社会とのつながりをもて、成長しろ、と言っているわけです。熊徹自身がまだ社会生活に適応せず成長できていない子供みたいなものなわけです。そんな男でも子供(弟子)をもつことを通して成長します。いつまでたっても子供なのよね、という旦那は多いですが、それはもう仕方ないことなのはこれが理由です。

さて、向学心の助けとなる高校生の女性と出会うわけですけど、これまた異性、女性という描き方は一切しません。人間は心に闇を持つ、それは誰でも持っているという「」を描いているだけで、まあロマンスらしいロマンスはないわけですよ。ここでも細田監督、ほんとに見事な割り切りだなあと感心するばかり。

いおうぜんの息子、一郎彦は実は人間で、心の闇を深くした結果危機的状況に陥るわけですけど、まあそれって実はそんなに重要じゃないと思うんですよ。映画というフォーマットの中でうまくカタルシスを作るために描いているだけで、その出来事を通して、熊徹のもつ純粋な「父性」を描き出そうというのがその理由かと。

つまり何かと言うと、「父性」とは子供の助けになること、なんです。

一見自己犠牲みたいに、自分の命を賭してでも子供(蓮)を守ったように見えてしまいますけど、どっこい胸の中で生きているわけで、守ったのではなく、心の剣になることで子供の力になっただけのこと。

ここが「父性」の非常に重要なポイントだと思っていて、直接手は出さない、ということです。いってみれば、一郎彦と蓮の戦いはまあ世界を巻き込んでいるように見えますけど、ちょっと規模が大きな喧嘩にしか過ぎません。だから決着は子供同士でつけるのが筋ってものです。

母子と違って、父子というのは最初つながりが希薄です。なにせポンと生まれてくるんですから、突然出てきたのを「あなたの子ですよ〜」って渡されるわけです。なにをまた冗談を、と思うのが実のところ。これを「俺に似て可愛い!」っていうのは相当母性が強い男性でしょう。

つながりが希薄な父子ですが、生活を通してだんだんと信頼関係を築いていきます。その中で原理原則、行動が似ている部分を発見し、改めてDNAのなす技に驚くわけですが、極論すればそのDNA、似てる似てないってあまり関係ないんです。

恩師、師匠と弟子の関係は父子の関係に近いんですよね。長年、そしていろいろなことを通して築いた信頼関係、絶対に裏切らない、これが父子の強さでしょう。だから結局生みの親より、育ての親、熊徹をはじめとする周りの大人達を親と蓮は認めてるわけです。生みの親にはそんなそぶり、ないですから。

これをなしえたのは、熊徹があまりにも昭和の男くさいが故。教え方が長島茂雄のバッティングコーチみたいなのには、笑い転げてしまいました。

この映画をみて、自分の子供との関係を改めて振り返ってみました。自分としては熊徹というよりもいおいぜんの方が近いので、子供の心の闇、深まってないといいなあと願うばかり。

というか、人間には心の闇があって、とかいう細田監督、やっぱり末恐ろしいと思った次第。一番闇が深いのは細田監督なんじゃないかなあ。

ということで、父親にはぜひみて欲しい、父性全開の映画でした。これは「おおかみこどもの雨と雪」とセットで見るべきですよ。というかセットじゃないと、バランスがとれない!

「おおかみこども」の時は絶望を感じましたが、今回の「バケモノ」は希望を感じました。いや、まだまだ、いける。日本社会は野性を、父性を取り戻せ!