ワールドカップ日本代表、お疲れ様でした

サッカーのことは何一つ分かりませんが、ワールドカップ日本代表について、想像通りのことが毎回繰り返されるのでさすがに整理したいと思いました。

戦犯探し

敗因、負けた原因を作った人、つまり戦犯を探し、吊るしあげ。監督であったり、選手であったり。例え勝ったとしても勝ち方が気に入らないという大衆によって、批判されるのに、負けたとなるとそれこそ凄い勢いで責任とれ、辞めろ、というのが散見されます。

その大衆が大層なサッカー選手であったり、監督であったりすればまだ理解もできるのですが、単なる観衆ですからね。もっとも大層な人であればそんなソーシャルや匿名サイトで駄文を書かずにもっと日の当たる場所で、責任をもった発言をしているはずです。

しかしなぜ毎回同じことが繰り返されるのでしょうか。同じことというのは、プロの選手、監督を素人がなじる、という構造です。

だれもが監督であり、批評家であり、オーナー

もっともこれはサッカーに限ったことではありません。日本では馴染みが深く、長い歴史をもつプロ野球でも起きていたことです。V9を達成した川上巨人は、勝ち続けているにも関わらずに勝ち方が堅実すぎる、つまらない、と批判されたほどです。逆に負け始めると、今度は監督が悪い、打者が悪い、投手が悪いとそれこそ罵詈雑言。結局勝っても負けても批判される運命です。

日本人のスポーツに対する基本姿勢がここにあります。

誰も選手を監督を応援していないのです。勝ったら歓びを分かち合う、負けたら悔しさを分かち合う、をしないのです。どちらかといえばオーナー的でしょうか。オレがスポンサーしているのに、負けたとはどういうことだと。

負けたら泣けばいい、悔しさをバネにすればいい。勝ったら喜べばいい、祝杯をあげよう。それだけじゃダメなんでしょうか。

オレたちは強い、出たら勝てるという幻想

一番厄介なのはこれ。過剰な自信、自己評価と、「試合」「戦い」という不確定要素に対する柔軟性のなさ。ようは実力どおりなら勝てるよね、みたいな漠然とした自信を持っているのです。そもそもその実力っていうのは何なんでしょう。機械でスペックどおりに回るエンジンみたいなものであれば、何馬力というのは決まってきますが、なにせスポーツですから、人間がやることですから、しかもチームプレイですから、相手も毎回違いますから。

そんな中で「実力」というのは一体なにで計れるものか、分からないじゃないですか。

で一番の問題は漠然とした「勝てて当たり前」という幻想です。

これだけ実力をつけたんだから、頑張ったんだから、有名監督をアサインしたんだから。いくつも「勝てる理由」をつけます。でもそれは勝つための必要条件ではなく、最低条件です。ワールドカップです、どの国だって努力してやってきてます。全員全力です。

サッカーは代理戦争

サッカーは代理戦争とも呼ばれます。実際に戦争をする代わりに、サッカーというゲームを通して国と国が、チームとチームが戦うという図式です。日本でもきっとそうで、これは戦争と同じ図式です。いわゆる日本軍問題。

日本が戦争に向かったのは軍部の暴走、というのが一般的に言われていることですが、それは誤りです。当時の世相は日露戦争以降、戦争という戦争はすべて勝ってきた、つまり戦争は勝てるもの、日本軍は強い、という幻想が支配していたのです。日本を戦争に向かわせたのは軍部が暴走したからではなく、軍部が暴走するように支援した国民の総意です。もしも戦後、戦犯を見つけるとしたら、国民がその責を負うべきでした。

しかし国民はその責を免れました。その結果一部の軍部に責任をすべて負わせ、日本人の日本人的気質は何も正されぬまま、ただ「戦争は恐ろしい」「戦争をすると自分たちが被害を受ける」「戦争はしない」という雰囲気が戦後日本人を支配してきたのです。

そこでサッカーです。

幸い、サッカーはスポーツであり、平和です。平和なだけに、その代理戦争的な意味合いを忘れさせます。そしてどうなったかというと最初弱かった日本がここ数十年で実力をつけてきて、オレたちはいける、強くなった、勝てる、という雰囲気が醸成されてしまったのです。

ここに選手とファンの不幸があります。

勝負事ですから勝つか負けるか分かりません。でも大衆は勝利を求めるのです。今回でいえば決勝リーグ進出でしょうか。

他国の強豪だって負けたり、予選リーグ敗退しているですから、なにも日本が負けても不思議はないです。しかしその負けた原因を戦犯に求めるのはどうかしているし、というかお願いだから毎試合戦犯探ししてタイムラインに長文書くのはやめて欲しい、と思います。選手と一緒に泣けばいいじゃないですか。

反省会しかない日本人

プロジェクトマネジメントの手法のひとつに、post mortemというのがあります。検死、という意味なのですが、ようはプロジェクトが終わったときに、その死因を探すというものです。

このpost mortemの一番の特徴はプロジェクトにかかわったすべての人間が、その人の立場からみて、良かった点、悪かった点、そしてそれぞれの原因、理由、さらに改善ポイントを指摘する点です。

そしてプロジェクトが成功しても悪かった点を、失敗しても良かった点を指摘します。つまり失敗プロジェクトがすべて悪かったわけではなく、良かった点もあり、それはそのままにする、伸ばして行くことができます。

ところが日本人の基本は「反省会」です。反省会とは反省をするのが目的なので、成功した場合には開かれません。そして失敗したときに反省会は開かれ、反省しかしません。

反省しかしない、というのは悪かった点しか指摘しないのです。失敗したときでも良かった点、そのままにすべきものや伸ばして行くべき点があるはずなのに、それを無視してしまうのです。

かくしてすべてのノウハウは無に帰して、すべてまたゼロからはじめちゃうのです。するとどうなるか。組織にノウハウが残らないんですね。

だからサッカーも勝ったり、負けたりを繰り返しても実力がついていくのではなく、結局その時活躍していた選手と監督個々人の能力に依存するだけで、全体としての組織力、つまりは日本としてのノウハウの蓄積というものはないんじゃないか、と思ってます。まあサッカーは良く分かりませんが。

こんなこと書くとまた、サッカーを良く知る、詳しいオレオレな人たちから、お前みたいな素人が何をいうんだ、黙ってろと言われそうですが、何度もいうようにこれはサッカーの話をしているんじゃないんです。日本人気質の話をしています。日本が戦争に負けた理由が、よく分かると言う話をしています。

私がサッカーファンであれば、勝てば共に歓び、負ければ共に悔しがる、泣く。

子供が結構足速くて、運動会の50m走で勝てそうなのに、一度も勝ったことないです。毎回スタートが遅かったり、風邪ひいたり、スタートでこけたり、同じ組に全校でトップ3に入る子がいたり。そんなときに「なんで勝てないんだ!」「気合いがたりん」「もっと努力しろ」なんて言いませんよ。言うのは

「お疲れさん。また次回頑張ろう」

です。

ワールドカップ日本代表、お疲れさまでした、また次回頑張りましょう。そっと応援しています。

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