松山城(2)謎が深まる眺望展望台としての大天守

Perfume 松山ライブ遠征のレポートが終わらぬうちに沖縄ライブ遠征ということになってしまい、光陰矢のごとし。惑星の動きと比べればいかに人生が儚く、短いものかということを実感中です。このまま何も為さずに草葉の陰に隠れてしまわないよう、今を大切に生きたいと思っています、ということで未完の大ツアー、松山城の続きですよ。

松山城のすごいのは、いやもうすごすぎて筆舌に尽くしがたい。その豊富な石垣技術、そしてそれを補強する櫓、門の数々。それらの多くが当時の趣をまもち現存している点。被災による復元もあるものの、総合的な城の完成度として最高峰と言われるわけです。

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分類的には平山城になるのですが、本丸に関しては完全なる山城。その山のてっぺんに谷を埋めて広い本丸を作りあげ、そこに平野はもちろん海まで見渡せる高い天守閣。

松山城 松山城はここがすごい 天守について

大天守の全高は、本壇から20m(しゃちほこの高さを入れると21.3m)。本壇は本丸から8.3mの高さがあり、本丸の標高は約132mであることから、大天守の標高は約161mあることになります。これは「現存12天守」の平山城の中では最も高い城郭です。山の高さは、同じ平山城である姫路城の約3倍の高さです。


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天守閣とは平城で遠くまで見渡せないために作られた、戦国時代のタワー建造物。山城であればそもそも作る必要がないものにもかかわらず、ここ松山城は作られたうえにしかも平時から使われていたと言われています。そうなると警戒にあたるだけでなく、まさに現在のタワーの展望台のような物見櫓や眺望ホテルとしての位置づけだったのでしょうか。

松山城 豆知識 松山城のひみつ

松山城大天守の不思議

天守とは戦闘のときにこそ、その存在価値があるのです。防衛の要として一大事のときにだけ籠城。日ごろは城主やその側近らが足を踏み入れることもなく、生活の場ではないのでトイレも炊事場もありません。床は板張りで天井板もないのが通例です。ところが松山城は一重、二重、三重とも天井板があり、畳の敷ける構造になっているのです。さらには床の間もしつらえられ、襖を入れるための敷居まであります。これは何を意味するのでしょう。当時の城主、12代松平勝善はここを何の用途にしようとしたのか、定ではありません。

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本丸から二の丸へは山道を降りますが、二の丸にはものすごい高さの石垣がタップリ。その高さを見るにつけ、こりゃもう難攻不落の大要塞的感がひしひしと伝わってきます。名城・熊本城は西南戦争の時にその強さを見せつけましたが、もしこの松山城で戦いがあったとしても、間違いなく不落だったことでしょう。そもそもこの縄張りを見ただけで戦意喪失です。

石垣大好きな私なのですが、すっかり二の丸から天守をみて驚愕してしまって、一番大切なものを見損ねてしまいました。それが登り石垣。

松山城 松山城はここがすごい 石垣について

登り石垣

「登り石垣」は、中国にある「万里の長城」と同じく、山腹から侵入しようとする敵を阻止する目的のため、ふもとの館と山頂の天守を、山の斜面を登る2本の石垣で連結させたもので、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、日本遠征軍の倭城築城で採られた防備手法と言われています。
国内の現存12天守の城郭では、松山城のほか彦根城だけにその存在が確認されており、当時の東洋三国(日本・朝鮮半島・中国)の築城交流史をうかがえる重要な資料として評価されています。

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のぼり石垣は県庁裏の別の登山ルートにあるものなのですが、その存在に気づかず素通り…なんたる不覚。なんとなく気になったんだよなあ、チラチラみえるあの山道と石垣…再びここ松山の地に訪れることを心に誓いました。

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