もっとも近い城なのに、今まで来ることはなかった「城山」こと「津久井城(築井城)」。たまたま津久井湖にいったときに「そういえば行ってなかったな」と思いだし、時間もあったので寄ってみました。
鎌倉時代初期に三浦一族の築井太郎次郎義胤により築かれたと伝承されています。戦国時代(1525年頃)になると「根小屋式山城」として整備され、後北条氏の家臣、内藤氏が城を治めていました。この地域は武田氏との勢力圏の境目であったため北条氏にとって重要な城でしたが、天正18(1590)年に豊臣秀吉の小田原攻めに際して落城しました。
今まで来なかった理由は簡単、石垣がないから。この城は成り立ちが古くは鎌倉時代初期、そして最盛期が石垣が台頭する戦国時代の前でなおかつ山城という自然の要害だったので、石垣は不要だったのです。
とはいえ今回いってみたら、なかなかイイ!
キレイな三角形状の山で、遠くからみると斜面がなだらかに続いています。しかし実際に近寄ってみると急斜面で、そのまままっすぐあがるにはかなりキツイ。遊歩道が整備されており、まっすぐあがる男坂と周囲をぐるっとまわるなだらかな女坂。男坂を選んであがったところ息は切れるし、汗だくになるしとかなり大変でした。
山頂まであがるとぐるりと回り一面見渡せます。関東平野はもちろん、甲府方面の山々まで。たしかにこれは武田信玄の勢力圏との境目です。
北条氏の本拠は小田原城ですが、近くの滝山城、八王子城などとあわせて支城ネットワークを構成しています。色々調べると狼煙台となった城が他にもたくさんあり、いかに北条氏がネットワーク網を整備することで隆盛を誇っていたかが伺えます。武田信玄、上杉謙信の猛攻を防いだこの支城ネットワークも、豊臣秀吉の圧倒的軍勢の前に敗れます。
小田原城と小田原評定にみる日本的戦争の美学 ([の] のまのしわざ)小田原城は関東一円に支城をもち、八王子城や滝山城はもちろん、川越城や江戸城もそのうちのひとつ。つまり関東平野一円は北条氏の支配下だったことが容易に想像がつきます。しかもこの支城ネットワークを支えたのが関東平野の視界のよさ。
八王子城からは小田原が見え、はては筑波山までみることができます。現在はスモッグや高層ビルでなかなか見えにくいですが、当時はノロシをあげるとすぐに分かったことでしょう。つまり光学通信、
光の道
です。このノロシによる通信でどこが落城したかもすぐにわかり、小田原評定もさらに混迷を極めたに違いありません。
1590年、豊臣秀吉による小田原合戦は一夜城が有名ですがあくまでもこれは最後の威嚇。22万もの軍勢をひきつれて行った実際の戦闘は各支城で行われ、3ヶ月をかけてひとつひとつ支城を潰すことで小田原城を孤立させ、最後には戦わずして開城させることに成功します。ここです、ここがポイント。
つまり戦争とは大勢で無勢を叩くものなのです。
つまり戦いとは数ということですね。
いまでは静かに水をたたえる津久井湖を眺めるのみです。
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次回は子供を連れて散策しにきたいと思います。