電子書籍と新聞紙とiPadの華麗なる相関関係

iPadの日本発売当日、ソフトバンク社長の孫さんに集中した質問はiPadでもiPhone 4Gのことでもなく、「電子書籍」のことでした。

色々取り沙汰されてますし、iPadを購入して新聞を早速電子版に切り替えたという野間美由紀(@rose_m)さんもいて、世間の関心が高いことがうかがえます。

さてここで確認したいのが、「新聞(ニュース)」と「新聞紙(ニュースペーパー)」について。

「新聞」というと「ニュース」と「ニュースペーパー」の両方をさします。これをさらに分解すると、「ニュース」と「ペーパー」。つまり新聞とはニュースとペーパーから成り立ってます。ところが議論となるとなぜかこれがごちゃごちゃ。

さきの電子版に切り替えた場合だと、ニュースは必要だけどペーパーは必要としないという意味です。

しかし私のように新聞をもう17年以上とってない人からみると、そもそも新聞社自体が不要です。不要な理由ですが、単一のニュースソースでは偏った情報しか得られないのがその理由で、公正な情報を得るには複数のニュースソースをあたる必要があり、新聞紙を購読するという手段でそれを行おうとすると出費が高くなって仕方ありません。

そこで愛用していたのがasahi.comをはじめとするウェブ版の新聞だったわけです。ニュースを巡回するのがWEB1.0の時代だとすると、昨今ではY!ニュースやグーグル、mixiニュースなど横断的に見ることができて便利となりました。

しかしこれでもまだ偏りがあります。というのもニュースを選別するのに恣意的、またはどうしても「人気のある記事」がトップになりやすいためです。人気のある記事とはどちらかというとタブロイド的要素が強く、読んで面白いですがタメになりません。

となってくると頼りになるのがソーシャルメディアです。twitterやtumblrで流されるニュースのそのマニアックさ加減、天元突破的な掘りはネット時代ならではのもの。

もうひとつ新聞社が頼りにならない理由として、新聞紙同様ニュースを捨ててしまうこと。

リンク先をクリックして「この記事は削除されました」ということが頻繁に、というよりもわざとそうしているんですね。これは考え方の大きな相違で、新聞社にとっての新聞はストックではなくフローであるということ。twitterがフローでアーカイブを検索するのに弱いとよく揶揄されますが、新聞社も同様です。いまだにマイクロフィルムで国会図書館に保存すればよいといった風情。

じつはネット時代になって一番の発明は「検索」。グーグルの登場です。グーグルはこのフローとストックの重要性と違いを理解しており、流れ消えゆくフローをすべてアーカイブしようと必死です。

さらにネットネイティブは情報はネット上にすべてあると思いがちですが、実はインターネット登場以前の1995年頃から前の情報はほぼ皆無に等しいです。グーグルのストックも同様でしょう。

そこでグーグルがとった措置。それは1995年頃以前の情報をどんどんとネット上にアップしていこうという作戦です。

ところがこの作戦、1995年からさかのぼるのではなく、1900年代から開始。当時の古新聞を全部アップしはじめたのです。これを現代まで行えば、ニュースとなったものは全部の時代ネット上にアップされます。

と同時に行ったのが、書籍のスキャニング。これも同じく時代を問わずアーカイブされたものをネット上におくことでいつでもアクセス可能にしようという試みです。

これによりネットネイティブの理想である、すべての情報はネット上にあるという状態をグーグルは作りだそう、という風に見えます。

そこで電子書籍です。

iPadの登場は確かにエポックメイクなのですが、従来の新聞社、出版社、版元がやろうとしていることとグーグルのやろうとしていることは明らかに温度差があります。温度差というか、思想の違いというか。

書籍も新聞同様、Book(本)という物理形態にとらわれた部分がありますが、新聞紙ほどは捨てられることはありません。フローとストックでいえばストック型です。古新聞は古本屋で流通しませんが、古本は価値をもちながら流通するからです。

そして重要なのは、読者にとって大事なのは書籍の物理形態ではなく、当然その中身、コンテンツ、内容です。そしてそのコンテンツをみるのに、どうして専用端末である必要があるでしょうか。つまり電子書籍リーダーに価値があるのかと。

iPadは電子書籍リーダーではありません。答えはそこにあります。

従来の電子書籍リーダーが失敗した理由は、それが専用、もしくはほぼ専用のガジェットだったからです。そのために数万円出し、なおかつコンテンツを別途有料で購入しなければならない、しかもめんどくさいし、紙の書籍に比べて利便性がないという苦痛を強いられていました。

一方iPadの出現はこれをまったく逆からアプローチします。つまり電子書籍リーダー「にもなるよ」というスタンス。

たしかに従来の書籍をスキャンしてpdfみたいに読む、といったのには向いているかというとそうでもありません。ただAliceのようなインタラクティブな新しい体験は逆に書籍では不可能なこと。つまりリーダーの進化にあわせて、コンテンツも進化するときがきているのです。

漫画も戦後数十年で手塚治虫らが発明、開発したフォーマット、表現手法にのっとっていますが、それは漫画雑誌、16pの週刊連載に最適化されたもの。コマ割も日本独自の風味があり、ギャラクティカ・マグナムで2pぶちぬきといった技はやはりジャンプならではのもの。例えば日本では白黒が主流ですが、アメリカ(アメコミ)はカラーが主流といったように、印刷の制限も加味されてます。

フォーマットがコンテンツを規定するのは何も漫画雑誌だけでなく、すべてに共通します。アニメや特撮ものは1年52回放送が基本であり、その間平和は訪れません。恋愛ドラマは1クール13話でその間恋愛は成就しません。映画は2時間、ながくても3時間でどんなに長い長い大きなストーリーがあったとしても3時間でゴールに達します。そうでなければ多くの人がトイレを我慢できません。

ですからiPadのような電子書籍リーダーが主流になった場合、当然それに最適化されたコンテンツが出現してくるでしょう。音がでるのか、映像になるのか、鷹の爪のようなアニメになるのか分かりません。漫画のデジタル化がすすみ、背景が3Dでモデリングされる時代になった今、新しいコンテンツの出現が期待されます。

その視点でいえば、「書籍の電子化」と、「電子書籍」の間には実は大きな隔たりがやはりあるのです。

なんてことをiPad狂想曲を見ながら考えた昨今。さてどうなることやら。

こうしている間も、着々とグーグルは書籍をスキャン(電子化)しつづけてますし、アップルはiBookを売り続けます。