S2000と私の昔話

HONDA | S2000 | Memories of S2000 ∼ 生産を終えるS2000へのメッセージ ∼ ・ 開発責任者 上原 繁

発売してから10年間、実に様々なことがありました。 そのひとつ一つが、良い思い出となって残っています。世界からたくさんの方の支持を得て、11万人以上のオーナーの方々と志を同じにすることができました。我々のコンセプトに、真に賛同してくださった方々です。おかげさまで、S2000を完成へと導き、終えることができました。

HONDA | S2000 | Memories of S2000 ∼ 生産を終えるS2000へのメッセージ ∼ ・ デザイン開発担当 澤井大輔

しかし、今となってS2000とS800を並べてみると、意外なほど共通点が多いと感じます。ムダの無いシンプルさ、ストイックなまでの存在感。他車と比較しても、唯一無二の存在となったように思います。また、時が経つにつれ、さらに存在感が際立っていくように感じています。

HONDA | S2000 | Memories of S2000 ∼ 生産を終えるS2000へのメッセージ ∼ ・ 溶接工程 長野 清

HondaのFRオープンスポーツS2000は、かつての「S」がそうだったように、生産を終え、時を経るほど価値が高まっていくのではないでしょうか。オーナーの方々には、ぜひ長く乗っていただきたいと思います。

HONDA | S2000 | Memories of S2000 ∼ 生産を終えるS2000へのメッセージ ∼ ・ ドライビング・フォーラム 特別講師 山野哲也

S2000の原型は「SSM=スポーツ・スタディ・モデル」。クルマという乗り物がアスリートの要素を持っていたことを、一度でもドライブしたことがあれば感じ取ることができる世界有数のクルマです。S2000ファンのひとりとして、現在所有している5台目のS2000を一生手元に置いておきたいと思います。

HONDA | S2000 | Memories of S2000 ∼ 生産を終えるS2000へのメッセージ ∼ ・ 組立工程 元永昭人

組み立ての現場では、HondaのホームページにあるS2000のユーザーズボイスをプリントして掲示板に貼り付けています。それを技術者が見て、技術者ひとり一人がお客様の顔を思い浮かべながら、一台一台心を込めてつくっています。つくりだけでなく、S2000は、部品ひとつ取ってもいいものを使っています。我々が言うのも変ですが、「非常に優れた製品」だと思います。まもなく生産が終了しますが、ぜひより多くの方に手にしていただけたら幸せです。

HONDA | S2000 | Memories of S2000 ∼ 生産を終えるS2000へのメッセージ ∼ ・ 塗装工程 藤由 通

一番難しいプレミアムパール・ホワイトをはじめ、これまでいろいろな色のボディを塗装してきました。かつて、プレミアムパール・ホワイトがどうしても納得のいく色にならず、何度も研ぎ直して塗り直したのですが、どうしても納車日に間に合わなくてお客様にご迷惑をおかけしたこともあります。至らないところも多々ありましたが、決して妥協することなく技術を磨き続けてきました。 みなさん、S2000の塗装の肌を今一度ご覧になってください。その肌の質感を見ていただいたら、世界のどのクルマと比べても力の入り方の違うことを感じていただけるのではないかと思います。お客様には、ぜひ自信を持って乗っていただければと思います。自分も可能であれば、ぜひ欲しいクルマです。S2000のオーナーのみなさまが羨ましい限りです。

S2000のルーツは1995年のモーターショーに出展されたSSM(スポーツ・スタディ・モデル)です。当時私はNISSANのウェブサイト構築の受託制作をしており、ちょうどモーターショー向けのライブ中継のシステムを構築・運営していました。

ちなみにSony NEWS Workstationにビデオキャプチャボードを組み込み、ビデオカメラを接続、定期的にビデオキャプチャした静止画をWebにアップするという仕組み。また音声はライブストリーミングがまだ出来なかったために、予め録音したナレーションをRealAudioで流しました。RealAudioはNEWS版がなかったため、WindowsがインストールされたQL-30を利用しました。もうひとつ、別のシステムとしては車のオリジナルデザインを投稿するシステムがあり、応募には応募用紙をダウンロード、応募用紙には予め2次元バーコードが印刷されており、その紙に絵(デザイン)を書いて、FAXするというデジタルとアナログの素晴らしい融合。こちらも同じくSony NEWSでFAX受信、画像化したものをCGIプログラムでWebにアップするという仕組みでした。

モーターショーの終了日、システムを撤収するために幕張にいったときのことです。まだ時間があるので30分ほど自由に見てきていいよ、といわれたので人もまばらになった幕張メッセを足早に駆け抜けていたときのことでした。

ホンダブースにあった、銀色のSSM。私の足はそこで止まり、激しいなにかが突き抜けました。

当時はGA2シティCR-iでジムカーナを一生懸命やっていた頃で、あまり市販車に興味なく、モーターショー情報もまったくチェックしていなかったので、まさかホンダがFRを出すとは思いもよらず、しかもそのスタイリングのエッジさに撃ち抜かれたのでした。

それから4年たった1999年、ようやくS2000として市販されました。そのときの感想は面がまるっこくなり、随分とシビックっぽくなってしまったなあと思ったものです。

とはいえFACT BOOKを読めば読むほど打ち抜かれていくわけです。当時EK9シビックタイプRを持っていましたが、次の車は絶対にS2000とここで決めました。

その決心から3年、2002年のこと。

色々あって、もう仕事やってらんねー(笑)とグレていたので結婚式をあげた1週間後に2シーターオープンであるS2000を、「子供が生まれるまでの1年の約束」で手に入れたのでした。

実際子宝に恵まれ、1年後に子供が生まれるわけですが、こんな素敵な車を手放せるわけがありません。手放したのは、同時に所有していたEK9シビックタイプRの方でした・・・!?

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(同時所有していたAP1S2000とEK9シビックタイプR)

いま考えるとこの2台を同時に所有してたってのもどうかしてますね・・・

EK9はサーキット専用車だったのですが、これを機にS2000がサーキット走行専用車とゆっくりと変貌していきます。

乳児ふくめて3人家族なのにさすがにS20001台ではまずいです。ということで世田谷に住んでいたのですが、八王子の奥様の実家が二世帯住宅に建て替えたのでそちらへ引っ越しました。そして実家の車を多人数用にということで(初代)プリメーラからRB1オデッセイに変更。

子供が大きくなり、奥様も運転することになったものの、オデッセイが大きく1ヶ月で2回もぶつけるなどの事件があって軽自動車スバルR2専門に。しかし近くで衝突事故があり、軽自動車が横転する事故があってさすがに心配になり、軽自動車を売ってMINI Clubmanを購入。

その間、S2000はオーリンズショック(FLAG-S, DFV)の2回の変更、Sタイヤ装着、LSD装着、ブレーキパッド変更、そして昨今のボディ補強と進化をとげました。

15000km走行で購入し、7年のってまだ36000km。特に最初の1年で25000kmまで走行したので、残りの6年で11000kmしか走っていないんですね。

最初は1年の約束だったのですが、振り返ってみるとそろそろ満7年。私の車歴の中でもっとも長いつきあいになりました。そしてこの後も長い付き合いになりそうです。ひとつだけ後悔していることがあるとすれば、新車で手に入れられなかったこと。まさかこんなに長く乗るとは思ってなかったので、リセールとの差額を考えて中古車にしてしまったことが唯一悔やまれます。特に塗装肌が磨き傷だらけ、再塗装歴もあってそこだけが残念です。

今回ボディ補強したのも、これからもまた長く乗るという意思表示。そしてオープンという、環境を肌で感じられるボディ形状はそのままに大切にしていきたいですね。

externet: EK9CIVIC 売却したジムカーナ・サーキット専用車

S2000 modification S2000購入初期の変更履歴

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