(2008年9月に熊本を訪れた旅行記です)
創業360年の白玉屋新三郎の店内にかけられた写真で美しい棚田があったので、教えてもらっていってきました。場所はこのへんです。
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道は脇には彼岸花が植えられ、ちょうど季節柄満開でしたのでとてもキレイでした。
この棚田の側には舞鴫(もうしぎ)集落、「西の大宰府」と呼ばれる舞鴫文殊堂がありました。1593年創建ですから軽く400年以上です。
民間レベルでも石垣です、武者返しです。
お堂は非常にこじんまりした感じですが、風情がありました。境内(?)の銀杏は樹齢300年、椋の木は樹齢400年。歴史の厚みを感じさせてくれます。
木の生長に圧迫されて、石垣が歪んできています。結構危ないような。
違う意味で歴史を感じます。「シベリヤ生還」。
家屋の鯱がまた立派。鯱だけではなく布袋さん(?)に亀と、かなり鬼瓦の造形が特徴的です。
舞鴫集落からさらに山に登っていくと岩清水が湧き出ているところがあります。
「峠の岩清水」と呼ばれ、写真のとおり多くの人が水を汲みにきていました。
そしてまたもや西南戦争跡地が側に。この付近は薩摩街道が走り、薩摩軍が敗走したという土地柄なのでどこにいっても西南戦争です。西南戦争跡地は結構ヤバいので近づかないでそぉっと去りました。
この地方は小川町東海東というのですが、南海東、西海東、北海東と、方角ばかり。一見わけわからないのですが、よくよく考えると「海東」という地名に東西南北をつけただけの話。ただこの山深い場所が「海東」と呼ばれていたことを考えると、いかに海に近かったかということがうかがい知れます。江戸時代に八代海の干拓が進んで平地が出現したのですが、それ以前はここがすぐ海の東側だったんでしょうね。400年前がつい先日のことのようです。