(続)ナウシカに隠された宮崎駿の陰謀:宮崎監督=碇ゲンドウ説

ナウシカに隠された宮崎駿の陰謀」の続きです。押井守監督や評論家、大塚英志さんの指摘をもとに

というわけでナウシカを見て、反戦・平和主義、環境保護の映画だと思ったら大間違い。本当は太平洋戦争を賛美し、慰撫する軍国主義映画かも。

と結論づけてみました。しかし宮崎駿監督はナウシカについてこう言っています。

風の谷のナウシカにおける庵野監督によるクシャナ戦記製作の拒否

--- 庵野君がクシャナを主人公で一本つくりたいと前からラブコールを送っています。結構面白いのが出来るような気がしますが。

宮崎監督「駄目ですね。つまらないものが出来る。
彼は、戦争ごっこをやりたいだけなんだもの。戦争ごっこは僕は嫌いじゃないけど。僕が三巻目に描いた戦闘場面なんていうのは、非常にうまく出来ていると思うんですよ。ざまー見ろというくらいうまく出来ているという、まあおろかな自慢です。戦争を描くのならこのくらいのことを描けと、そういう見栄も僕にはありますから。
でも「ナウシカ」は、戦争を描くまんがではないから。

ちなみに魅せる「戦争ごっこ」の描写で自画自賛しているナウシカ第三巻はこういった描写。

キッチンに入るな

単行本の7冊を通し全篇が戦争状態という物語下にあって、『ナウシカ』第3巻後半の戦闘シーンは出色の出来だと思う。土鬼の城を占領していたトルメキアの辺境部隊が、いまや装備を整えた敵大軍にとり囲まれて全滅も時間の問題、援軍も来ない、というところにクシャナが帰還する。ここからはじまるトルメキア第三軍の突撃作戦を描いた数十ページには、何度読んでも舌を巻く。兵力で圧倒的に劣るため、奇襲で一発逆転を狙うしかない状況を生むにいたった軍内部の確執を書き込む前準備もさることながら、そこには何よりも、敵の大人数を少人数で引っかきまわす小気味よさがあふれている。クシャナを先頭にした精鋭部隊が味方の撃つ大砲の煙に隠れて突撃、敵の攻城砲を破壊してまわるという無茶な戦略(クロトワの意見は「兵学校の答案なら零点」)に説得力を与えて描き切った宮崎駿の絵の力は、やはりちょっとどうかしていると思う。  基本は騎兵戦なので、みんな騎乗して走る。このひとに描かせると、何十人かの人数からなる部隊が、たしかにそれだけの数を伴って走っているように見える。異様にスピード感のある小部隊の動き、心ならずも参加したナウシカの独走を追ってコマを眺めていると、こちらにも地形の起伏まで伝わってくる気がした。ひとつひとつは止め絵だというのに、思い出そうとすると、駿の絵は動いている。

宮崎監督によると『「ナウシカ」は戦争を描くまんがではないから』ということです。しかしながら押井監督をはじめ、見ようによっては軍国主義映画っぽくも解釈できます。ではもしもこれが宮崎駿監督の本意ではないとすると、なぜこのような見方も出来てしまうんでしょうか。

はてなブックマーク - ナウシカに隠された宮崎駿の陰謀 ([の] のまのしわざ)

2008年06月08日 welldefined 全くその通り。でもわかっていてもこういう話は好き。日本人だからね。 / 話を軍国主義に落とすのは世代病なんで堪忍してやってください。

なるほど、「世代病」なので無意識のうちにやってしまうという解釈も成り立ちます。つまりわざとやっていないけど、世代の背景に流れる軍国主義のカタルシスが2時間という映画の枠に収めるにあたってついつい顔をのぞかせてしまったという、未必の故意。

一方で庵野監督による、宮崎監督評ではこんなことも。

もののけ姫とエヴァンゲリオン(宮崎監督と庵野監督)

0.宮崎監督と庵野監督(デラべっぴん96年8月号掲載 エヴァ都市伝説より一部抜粋)

-以下、引用部分-

庵野監督は、「エヴァ」が自分の心象風景を描いた作品であると繰り返し述べている。クリエイターとて人の子。作品はきわめてパーソナルな動機から作られていることが多い。ここでは、庵野監督にとっての現実世界=アニメ界に即して「エヴァ」という作品を読み解いてみることにしよう。

人類補完計画は現実に進行している。これは冗談ではない。シンジ=庵野監督から見て、碇ゲンドウ司令官は宮崎駿監督の化身である。宮崎ゲンドウの右後方には常に高畑勲監督が立ち、宮崎氏を補佐している。

(中略)

この時の宮崎監督と庵野氏の出会いが、まさしく「エヴァ」第壱話の父子対面のシーンである。

「カットを上げろ!」「ぼくが描くの?そんなの・・できっこないよ!巨神兵なんて描けるわけないよ!!」「描くなら早くしろ。でなければ、帰れ!」

(中略)

当然、ゼーレの賢人会議とは、アニメにお金を投資して儲けようとしている人々のことである。

宮崎監督は彼らに従うフリをしながら、どこかで彼らの裏をかいて人類の補完を進め、着々と成果を収めている。

もしも

宮崎駿監督=碇ゲンドウ

であれば、そのままを信じていいのか悪いのか。表面上は「映画にするにあたって、2時間の枠に収めるためたまたまそういう話、表現方法になった」という風に言い、確かに漫画版では異なるストーリーだったとしても、相手が「碇ゲンドウ」なら言葉をそのまま鵜呑みにするわけにいきませんね。

いずれにしてもこういった解釈や憶測がいくつも成り立つほど、ミルフューユのように積み重ねられたナウシカのストーリー、設定の深さに感服せざるを得ません。製作からもう25年がたとうとしているアニメ映画なのに、何度見ても楽しめるのはそういった深さによるものなのでしょう。やっぱり宮崎駿、いや碇ゲンドウ監督おそるべしです。