「ソロモンよ、私は帰ってきた!」
ということで、感想パート2・完結編です。
機動戦士ガンダム 0083 STARDUST MEMORY vol.4 | |
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今までの間に「ガンダム第08MS小隊」と「ガンダムF91」を見てしまって、もうある程度いい感じに忘れてしまった感のある0083ですが、曖昧な記憶で書くのがまた良い、ということで進めます。
0083の素晴らしい点
前回結構辛辣なことばかり書いてしまったキライがあるが、実際には目を見張る点が多い。まず挙げられるのが
・安定した作画
OVAなんだから当たり前といえば当たり前だが、映画版でもF91はちょっとこれはという絵が多かったのに対して作画は素晴らしい。そしてさらに言えば
・MSの運用が航空機的
マクロス的とでもいえば言いのだろうか、GMやガンダム1号機(GP-01Fb)など細かくバーニア制御をかけてみたり、編隊を組むなど他のガンダムシリーズよりもそれっぽい。やはりここは河森正治氏が貢献しているためだろうか。
そして最も気に入ったのがこれ。
・空間(位置関係)と時間軸の大局が掴み易い
ガンダムシリーズを混沌とさせてしまうのがこのポイントだと個人的に考えている。ファーストガンダムでは大局からわざと分離させ、ホワイトベースを中心において空間と時間軸をつむいでいるので比較的分かりやすい。後半になり、ようやく連邦の一翼に参加したオデッサ作戦、星一号作戦、ア・バオア・クー攻略においても要所要所で戦局を伝え、どちらが優勢でどの方向からソーラーレイ(コロニーレーザー)が放たれたとか分かりやすく描かれていた。
これに対して全然つかみきれなかったのがZ(ゼータ)。MSがバンダイの深謀により大量投入された上、エゥーゴ、ティターンズでのデザインの統一性がないために戦闘シーンも緩慢で、しかも大局としてどちらが優勢かどうかがつかみきれないまま最終局面を迎えてしまったキライが強い。この点は映画版になって随分と改善された点で、特に3部目のコロニーレーザー発射のシーンでは、個人個人の戦いを描きながらも大局がよく分かるにようになっていた。
一方0083ではソロモン戦、そして星の屑作戦で明確に時間軸および空間を描くことで連邦VSデラーズフリートの優勢劣勢を表現することに成功し、緊迫感を盛り上げているように思う。特に連邦艦隊が最終ポイントに到達できない点と、それを補う形でバスクと共に現れたソーラーレイは圧巻である。タイムリミットと戦う両陣営が疾走感として0083のカタルシスといっても過言ではないはず。これに比べたら前半のエピソードはガンダム強奪とその捜索を除いて甘く、たるく感じてしまうはず。
ニナの役どころ
ストーリーラインが後半、星の屑作戦へと明確に帰着するのに対して最後の最後まで感情移入できないのがこのニナである。「ああ、私のガンダム」というセリフからはじまり、ガトーが2号機を強奪したことに対して当初反応がなかったものの、最終話でのあの行動はそりゃ幼いコウでなくったって錯乱しようというもの。コウだってニュータイプでもなく、パイロットとしてうまくなりたいという負けず嫌いのヒヨッコでしかないのに、ニナが翻弄しているのか、翻弄されているんだかよく分からない。特にコウがコンサートチケットを持ってデートに誘おうとしたときの逆ギレはいくらなんでも忍耐足りなさすぎでは?
まあそんな途中のエピソードなどどうでもよくなるくらい、最終話の行動にはビックリですけれども。
結局どちらの勝ちなのか?
ガトーとコウの宿命(?)の戦いの結果は明確ではなく、さらに星の屑作戦が結果的に成功したの失敗したのかも分からず。コロニーは落ちたけど目標は外れたという意味では星の屑作戦は失敗、しかしコロニーを地球に落とさないということを目標としていたコウ、連邦軍としては阻止できなかったという意味で失敗。個別の戦いを見ても直接対決に決着はつかず、ガトーは連邦に包囲されたジオン兵士とともに散ってしまう。コウはデンドロビウムをもちだしたことで軍法会議を受けて有罪判決を得るも、ガンダム開発計画が無かったものになったため罪状が消滅、無罪放免となる、、、って後味どうなのよ!?コウには勝利のカタルシスも、敗北の美学も、脱出の安堵もないまま、憤懣だけが鬱積するような結末。
そしてその埋め合わせでニナとの再会のカットがDVDには付け加えられたそうな。その後二人が上手くいくはずないと思うのだが。
三角関係
ニナ、ガトー、コウの三角関係の図式はやはりマクロスのヒカル、ミンメイ、ミサの図式に近いものを感じる。これも河森正治氏の影響なのだろうか?と考えるくらい。マクロスの場合はストーリーラインも重厚長大でありながら、三角関係も主眼において描ききっていたわけなので「大銀河をまたにかけた三角関係ドラマ」という言い方ができ得る。一方で0083の場合はなにせガトーがそのニナ、コウのいきさつなんてまったく知らないまま最終話まで来て、コロニー内でいきなりモトカノとその彼氏が現れて痴話喧嘩に巻き込まれ、人類の将来と大義に燃える男がいきなり個人的な感情の応酬のレベルまで落とされるのが悲しい。最もそれが現実社会であり、個人の感情が積み重なって大義が生まれることをガトーに思い知らせるための皮肉であるのかも知れない。そういう意味では三角関係ドラマというよりも、「大義は個人の感情に敵わない」ということを暗示したドラマとも言えよう。
もうひとつ皮肉なのは、ニナがコウを一人前(男)として認めなかったのに対して、ガトーはそれまでヒヨッコ扱いしていた一兵士、コウを最後に待った=一人前として認めて最後の戦いを挑むシーンであろう。これでコウは浮かばれるというものだ。
まとめ
ひとつの作戦のフォーカスして、それを分かりやすく描ききった部分に感動。とにかく主役はガトーとデンドロビウム。