野間教育論

子供は「小人」

日本語(中国語?)は素晴らしいと思うのが、この言葉。「大人(おとな)」と「小人(こども)」どちらも「人」であって、大きさだけで区別している点。というのもよく「子どもだから」とか「子どものくせに」とか言って過保護になったり、侮ったりしてますけれども「人」という点で大人と同じであれば過保護にしたり侮るのは失礼千万な行為なのです。大人に対して「よしよしでちゅねー」ってやるのは失礼でしょう。

小人の特徴は


  • 身長が僅かであるので、大人の視界に入らない

  • 体重が少ないので大人に軽く持ち上げられてしまう

  • 力がないので大人にたやすく押さえ込まれてしまう

  • サイズが小さいために重力の影響を受けやすい(運動能力が大人に劣る)

  • 筋力が未発達なために繊細な作業や、力の加減ができない


などである。いずれも物理的に「小さい」という点に起因している特徴であり、「大人」という存在に力で制御されてしまう。
一方で思考力、空間把握能力、理解力、行動力に関しては2歳児にして一人前といっても過言ではない。階段を自由自在に上り下りする能力、状態を言語で表現する能力があり、周りの状況を判断して行動を決定することが出来る。「三つ子の魂百まで」というが、数えで3歳は二歳児のことであるため、昔から同様と考えられる。

言語能力については残念ながらボキャブラリーは非常に少ないが、これももう数年もすれば立派に文法に則り、豊かに表現することが可能となる。

さて小人は嘘をつく。自分の都合のいいように解釈し、思い通りに行かないとかんしゃくを起こす。自分に甘く、人のことは顧みない。これは「人」の特徴であり、「小さな人」の特徴ではない。「小さい」「人」の特徴は先ほど述べた、物理的に小さいことによる特徴となる。このような特徴は大人と呼ばれる人にも共通する。嘘をつく。ルールを守らない。自分に都合よく解釈する。自分に甘く、人に厳しい。大人と呼ばれる世界でこれは日常茶飯事に行われている。タバコの投げ捨て、迷惑行為、大人の方が物理的に大きな分、より被害甚大である。さらにはボキャブラリーや話術がたくみな分、より嘘が巧妙であり、悪事を働くことが可能である。以上より「大人」と「小人」は共通の行動特徴を持っていて、差は少ないと考えられる。

自分の息子を観察していると、大人と小人の差は物理的なものだけなのだなという確信が生まれる。そうなると最も困るのが「大人」である親の存在だ。親は「大人」というだけではなく、「親」としてのfunctionを果たさなければならない。そうでないと小人との差は「大きい」だけとなり、教育という呼び名の感情のぶつけ合いは子供の喧嘩に成り下がるからだ。

親の「どうしてあなたは私の言うことが聞けないの!」というのはよく聞くセリフだが、小人には小人の主義主張があり、大人の意見に賛成できないから聞かないのである。これは大人同士ではなかなか言わないが、物理的に優位な大人はさらに力でねじ込むことで言うことを聞かせることが出来るという安心感からこういうことを言う。実際大人同士でも「権力」を持っている、上司である、相手の弱みを握っている場合は同様のことを言いやすい。

一方で大人である親は「大きい」ことだけを利用せずに「小人」を諭さなければならない。そのためにはあの手この手、経験やらアイディアやらを駆使して相手を納得させる必要がある。それが親に課せられた親としての使命だと考える。場合によっては踊る、歌う、怖がる、逃げるなど、身体を使った芸当を使うし、何かをさせたい場合はわざと同じことを自分が楽しそうにやって見せることで真似させて、自らが選んでやったように思わせることが最も効果的である。例えばうがい、手洗い、歯磨きなどである。

強制も、体罰もメソッドしてはあるとは思うが、一番効果的で健やかなのはこの、「自分が楽しそうにやって見せることで真似させて、自らが選んでやったように思わせること」である。ちなみにこれは自分の中では「トム・ソーヤメソッド」(トム・ソーヤが塀のペンキ塗りをやらされたが、実に楽しそうにやってみせて友人に「オレにやらせて」と頼ませて代わるというエピソードに由来)と命名して多用している。

これが野間教育論第一章。つづく・・・かな?