映画「ブレードランナー最終版」

結局、この連休中にブレードランナーをまた見てしまいました。

最終版と呼ばれる、director's cutなのですがよくまとまっています。この世界観がなんとなく理解できればイノセンスの難解な部分をかなり読み解けるでしょう。

スタッフを改めて見直すと凄い面子が揃っていますね。監督のリドリー・スコットをはじめ、美術デザインはシド・ミード、音楽はヴァンゲリスです。ヴァンゲリスといえば、南極物語。ここ最近ずっと頭の中にブレードランナーのテーマ音楽がグルグルと鳴っていますが、南極物語の音楽が思い出せません。というか少し思い出してもなぜかいつのまにかにブレードランナーになっている。恐ろしい。

ブレードランナーの世界は2019のLOS ANGELES。えー、あと15年でこうなっちゃうんですかぁ?香港みたいな新宿みたいな町にずっと雨がシトシト降っていて、車は全部エアカー。うちの息子は2003年生まれなので、免許を取ることにはエアカーです、と考えるといかにハードウェアの進化が予想以上に遅れているかがわかります。

一方で進んでいるのはクローンやDNA操作技術。レプリカントは2019年には実験段階では十分成立しているかもしれません。まあ倫理はともかくとして。

レプリカント(人造人間)を人間と区別するためのテストがあるのですが、人間の記憶がいかに人格を形成するかを浮き彫りにしています。逆に記憶をインプラントされた人造人間は自分を人間だと認識します。なぜなら本人にはその記憶がうそか本当かを確かめることができないからです。逆に人造人間は人間に問います。そのテストをされたことがあるかと。人間もおぼつかない記憶で人格を形成している同じ存在だと暗示しているのです。

歴史とは記憶の集合体です。個人個人の体験と記憶を体系化して枝葉を切って幹だけにし、そしてだいたいの場合は「言葉」で残しています。言葉がいかに不完全な情報伝達手段であるかを認識しているわりには、他の有効な手段を持たない人間は言葉に頼ります。その言葉の真偽は、信じたいかどうかという意思によって決定されています。証拠がない限りは確かめるすべがないからでしょう。

記憶をなくしてしまったら。もし歴史を無くしてしまったら?というよりも亡くすためには?答えは言葉を亡くすことです。言葉を亡くすことで、人々が変わり歴史も変わります。

そういったことは20世紀には頻繁に行われていました。植民地政策です。母国語を奪い支配国の言葉の教育を行う。フランス語やスペイン語が普及しているのはこのせいで、これに比べたら英語などカワイイものです。三国政策による日本語教育も戦後とやかく言われていますが、その時代の政策としてはとても妥当です。

今瀕死の言葉として注目を浴びているのが、ハワイのハワイ語、イースター島のラパヌイ語である。前者は英語に、後者はスペイン語が公用語のために絶滅の危機にさらされてしまっています。

言葉は記憶をつむぐ糸です。言葉亡くして記憶は蘇らない。

関連リンク:
鉄筆 ハワイ語について

Amazon:

ブレードランナー 最終版
発売日 2002/07/05
売り上げランキング 1,110


おすすめ平均
最終版!!!完全版!!劇場公開版!全てブレードランナー
もはや古典的名作と言って良いでしょう。教養として見ておくべきです。
2つで充分ですよ

Amazonで詳しく見るB00006AFZ6