子供の進学先に高専を薦める理由

いよいよもって中学進学である。

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というのは今小学6年生の子供の話。幸い今通っている私立小学校は中学があり、そんなに背伸びしなくても上にあがっていけるという。ただし、中学になると

・外部から学生が(受験して)入ってくる
・男子校となるため、現在の女子は全員中学受験して出ていく

という違いがある。そのため男子であっても中学受験をして他の学校へ進学する家庭も多い。

うちは、というか私は中学受験を子供にオススメしなかった。というのはいくつか理由がある。まず自分が中学受験をした体験から、もちろん良い面もあったが、当然悪い面もあったからだ。

中学受験で失うもの

まず、小学時代というのは遊びたい盛りだ。しかし一般的に中学受験をすると、塾に宿題に、と勉強が中心となる。

本来は成長期であり、身体を作る時期に家で机に向かって勉強する、というのは身体的によろしくない。私の場合、一日5時間勉強をしていた。この時間数は公立小学校の授業時間、塾での勉強を含まない勉強時間である。つまり、トータルにすると一日13時間は勉強していた計算だ。

寝る時間も遅く、0時を越えることはざらで、だいたいの就寝時間は1時近くなっていた。

いわゆる「受験戦争」の時期だったこともあり、結構これが普通であった一方、苦労して受験して入った中学・高校はそういう人ではない人がたくさんいた。

どういうことかというと、頭脳のエリート。勉強しないのに、勉強ができるタイプである。

そういう人の行動様式をみたり聞いたりしていると、普通に遊んで、普通に勉強して、成績がよい。いわゆる「ガリ勉」ではないので、スポーツもできるし、体力もあるという、ある意味スーパーマンである。

そういうタイプはどうやって作られるかというと、家庭環境、親からのDNAによるものが大きい。ガリベンはある意味、強化人間であって、どんなに頑張ってもニュータイプにはなれないのだ。

それに中学に入って早々に気付いた私は、それまでの「ガリベン疲れ」も手伝って、中学・高校は一切勉強しなかった。一切だ。宿題すらやらなかった。

そのために成績は低迷、高校に至ると英語、数学、古文など、文系・理系を問わず赤点(60点以下、落第の対象)を重ねていった。唯一好成績だったのは美術くらいなものである。絵を描くのは得意だったから。

中学・高校時代にやっていたこと

勉強しない代わりに夢中でやっていたことは何か。それはコンピュータのプログラミング、アニメ・漫画をむさぼるように見、同人誌でイラストや文章をしたためていた。部活は多分にもれず、文化系。「物理研究部(物理部)」の電気班、電子工作をやるのが中心。リモコン戦車作ったり、LED光らせたり、ICいじったりするのが本業だが、電子工作は材料費、交通費でお金がかかるので、実際にはだべって遊んでいたが。

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そんなわけで勉強しない、楽しい6年間はあっという間に過ぎて、大学進学となるわけだが、そもそも私自身は大学進学に対して懐疑的だった。というのも大学に進学して就職する、というプロセスがどうにもイメージできなかったからだ。

人事部の父親

当時ある東証一部企業の人事部に所属し、採用面接から社内人事を担当していた父親に「大学にいかず、アニメーターになりたい」といったところ、烈火のごとく怒られた。採用人事をやっている父からすると、バブル景気直前の日本社会環境を考えたら、学歴は大切なことは当然である。そのため

「いまどき、大学くらいでろ! 1年くらい受験勉強を我慢して大学へいけ!」

と言われたのであった。

結局アニメーターを志望するのは断念したものの、受験勉強は小学時代のトラウマや、周囲の才能溢れる賢い人と同じ土俵で戦うのは無理と判断し、推薦入学制度を利用して大学、電気電子工学科へと進学した。理由は、物理部で電気電子系が好きだったこと、そして情報系の授業があったから。

いまどき大学院くらいでてろ

大学1年の夏くらいだっただろうか、ちょうど駅を出て自宅に歩いて帰ろうとすると丁度父親も歩いていたので、声をかけた。するとなんの前置きもなく、こう言われた。

「お前、大学院に進学しろ」

お金がない家庭にも関わらず、推薦でいける大学が私立だったので、とっとと卒業して社会にでようと思っていた矢先にこう言われたのは意外だった。この時期はまさにバブル景気がはじまる1986年、高学歴社会がさらに進行していたのである。

実際大学院に進学し、就職活動するとそれは明らかであった。

大企業は優秀な人材を大量に欲しい、そのため優秀な大学から順番に推薦枠を決めていき、大学・学科に数名の枠ができる。人気企業には定員を越える人数が殺到するわけだが、基本的な優先順位は 院生>学部生 となる。同じ院生なら成績順、というのが一般的だ。たまにジャンケンで決める、という大学、学科もあったらしいが、人生を左右する就職をくじ引きやじゃんけんという運次第、というのも論理的ではない。まあ実際には人生は運なのだが。

就職氷河期

ちょうど私が就職時期にバブル景気は崩壊、新卒の求人がぎゅっと絞られた時期である。幸い理系はその影響は少なかったが、その後数年にわたり、新卒求人数は半減、半減を繰り返し、結果的には1/5くらいになったようだ(私が就職した某大手電気メーカー)。

そして現在も就職難が続いている。簡単にいうと大学に進学しても、就職活動をたっぷりやらないといけない状況と聞く。私の時代は就職協定なるものがあり、解禁日に企業がこぞって学生を「確保」する名目でパーティや説明会をやってソフトな拉致・監禁を行っていた。他の企業に学生を渡さないためであり、一番笑ったのはそのパーティを船でやるというもので、これは途中でパーティを抜けだして他の企業にいくことはできない。

今は大学3年生くらいからOB訪問やインターンなど、就職活動に時間を割いているらしい。それでは大学に何をしにいったのか分からない。大学に進学するのは、より高度な教育を求めること、そしてよい就職先が得られるからではなかったのか?

即戦力となる高専

そんなご時世にもかかわらず、高専の就職率は非常に高い。先日も近所の高専の学園祭で今年卒業という学生に話しをきいてみたところ、就職活動ゼロ、学校に企業側から求人があって、「どれにしようかな?」と学生が選ぶという状況だ。その倍率は実に5倍以上という、つまり学生1人に対して求人5人以上。

なぜ高専生が人気かというと、実践的な教育を施しているために即戦力として現場に投入できるからだ。勉強ばかりして、理論や理屈はよくわかったとしても、それよりも実際に配線したり、機械加工したり、プログラミングしたり、という現場力が求められている。いよいよもってOJT、つまり現場で教育する手間暇すら企業側が惜しんでいることも明確だ。

実際個人的な体験として、高専卒の人材はおしなべて優秀だ。年の割に落ち着いていて、しかも手が早い。いちいち「なんでそんなこと、やらなくちゃいけないんですか」と生意気な口をきくことはない、「分かりました。ところでコレ、こうやったほうがいいんじゃないですか?」とよりよい提案を受けるほどで頼もしい。

万能性よりも専門性、理屈よりも実践

学歴、高学歴が求められた日本社会はその背景に高度成長期、経済成長があった。人口分布は釣鐘型、働き盛りが多く、上にあがると少なくなる。そのため企業も年功序列型となり、年齢が上になると昇進するという仕組みがとられた。その昇進の順番は高学歴順であり、高卒や高専卒は不利だった。そういうこともあり、人事部の親が私に大学くらい出ろ、大学院へ行けといったわけだ。

しかし時代はかわった。日本は変わった。

大学を出ても就職できるか分からない。大企業に入ったとしても、一生安泰かは分からない。年功序列で昇進、昇給するのは夢だ。この裏に男女雇用機会均等法の影響もあるのだが、これは機会を改めて。

日本経済が今後急成長することは、人口分布から考えてありえない。つまり現状維持、停滞をしていくことになるが、それが見えている今、大学進学を前提としていていいのだろうか?

日本の学歴社会のヒエラルキーはシングルだ。どういうことかというと、ひとつのピラミッドしかなく、高専は短大と同等、大学の下の扱いだ。それが高専の地位を低くとどめている。これは卒業年齢、つまり年功序列の悪影響であるし、ひとつの価値観しか持てない日本の特徴でもある。

ドイツでは大学とは別に、職業学校の進学ルートがあるという。つまり職人を養成する人生コースだ。職人になる人材は中学から別のヒエラルキーの中へと入っていく。その中のヒエラルキーと、学歴ヒエラルキーがあいまみえることはない。これにももちろん良し悪しがあることだろうが、一生技術者、エンジニア、職人でいたいプロにとってはありがたい制度だ。なにせ日本社会ではプログラマー30歳定年説、のようなある程度年齢が上がったらマネジメントしなければならない、と職人を強制的にジョブチェンジさせることが横行しているからだ。よい選手がよい監督になれるわけではないように、よい技術者がよいマネジメントになれる、という保証はない。

高専の地獄

高専に進学させるのを躊躇させるひとつの意見に、「合わなかったら毎日が地獄」というものがある。確かにそうだろう、興味のない授業や実習、毎日のレポートに、課外活動。寮生活でプライベート時間がほとんどなく、勉強漬けになるからだ。

私は世界史や文学、哲学、経済には興味がなく、マルクスだ、マグナ・カルタだ、アウグスティヌスがどうたらとか言われて毎日本を読んで感想文かけ、という全寮制の生活だったら地獄だと思う。

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しかしくだんのように、中学・高校時代を電子工作やプログラミング、ちょっと同人活動で過ごし、大学時代は電気電子工学科で実験にレポートをやっていた人間からすると、高専でやっていることは、

好きなことで遊んでばっかりいる


ようにしか見えない。夢のような環境だ。

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部活で自作の自動車作ったり、ロボコンしたり、人力飛行機を飛ばしたりできる、というのは余りにも魅力的すぎる。なにせ物理部時代のネックは材料費と秋葉原にいくための交通費だったわけで、それがお小遣いではなく、授業の一環として授業費から出せるとすると可能性は無限だ。簡単にいうと今はやりのmakersムーブメント、DMM.makeのような環境が学校内に備わっていて、自由に使える。あとはやる気次第。

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好きなことに没頭して、それで成績がつくなんて、素晴らしい。覚えてどうするんだコンスタンチンノープル、漢文なんて使わないし、やる意味わからないと思うと頭に入らないし、成績も悪くなる。いやなことばかりだ。

地獄か天国かは適性次第。その点、うちの子供は適度にこっち方向になるよう、前々から「ものを作る」「ものをなおす」ことに気を使って教育してきたのだ。

受験勉強は最小限に

物を調べて、知る。勉強はそれ自体は時間がかかり、できないと嫌になりがちだが、どの国へいっても衣食住と同じように求めるのが教育である。勉強できることは、それ自体が楽しいことなのだ。その点、ゲームと一緒だ。やれないとやりたがり、やらなきゃいけない状況、例えば興味のないゲームをずっとやり続けてクリアしろと言われてもやりたくないし、実際やる意味もない。

受験勉強は勉強と言う名前がついているが、特殊だ。ゲームでいえばクリアをしなければいけないクソゲーみたいなもの。

やって全部が全部無駄にはならないが、効率的とも言い難い。なにせ本人の適性や興味にかかわらず、すべて網羅しなければいけないからだ。だから最小限にしてあげたい。

中学受験をしなかった場合、次の受験は高校受験だ。もし大学進学するとなると、今度は大学受験も控えている。つまり中学・高校時代、受験勉強ばかりすることになる。

私自身が中学受験で得たものは、中学・高校の自由な時間だったのかもしれない。本来は大学受験で、親の言葉を借りれば1年くらい大学受験勉強をやるべきだったが、それをスルーして大学進学できたのはラッキーであった。

子供がもしも高校受験で高専に進学すると、それ以降もう受験勉強は必要ない。あるとしたら大学への編入試験といったものだろう、もしそれは編入を希望すればの話しだが。

学歴のパスは柔軟に

日本社会から学歴社会、年功序列がなくなるとすると、学歴はより柔軟になるはずだ。つまり社会人学生といった、よりアメリカに近い形になるだろう。Back to Schoolといったように、必要なときに、必要な技術・知識を学ぶ、というモデル。それならば最初にストレートで大学院までいく、というシングルパスではなく、社会にでたり、学校に戻ったり、転職したり、というのを繰り返すことになるのではないか。そういう多様性のある社会になれば、一概に高専が不利、ということもはないはずだ。そもそも学歴不問、というのが昨今の流行りのはずだし。

12歳の子供がもし大学卒業して就職するとすると22歳、10年後の未来である。その10年後の未来、日本は、世界はどうなっているのか。そういうことを考えて進路を決める必要がある。

で、本人はどうなの?

親が色々考えても、結局は子供の人生。子供の意思が伴わなければ、どうにもならない。とはいえ成人するまでは保護者としての役割が親にあるわけで、すべて子供の判断に委ねるのは、その責任を放棄していることに他ならない。

言えば反抗するので、ジワジワと外堀を埋めたいわけだが、まだ本人はその気になっていないようだ。むしろ進学や将来、といったことについて余り考えてないように感じる。小学6年生はそんなものだ、といえばそれまでだが、ドイツはその時期にゼネラリストになるかスペシャリストになるか選ばなければならない。

なお、色々とご託を並べてきたが、私が高専を薦める最大の理由は。

家から歩いて5分のところに、最高レベルの国立高専があるから。

教育レベルに対し授業料は安いし、通学時間もほぼナシ。これに勝る理由はない。

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