45歳になったこと。死と向き合い生きるということ。

今月で45歳となりました。もはやアラフォーとかいうレベルではありません、四捨五入すれば50、立派な中年男性です、オッサンです。

オッサンとなることに対して抗うことはやぶさかではありませんが、子供の成長と対照的に見事なまでに老化が進んでいます。アンチエイジングは表面上、精神上は可能かもしれませんが、肉体の性能の衰えは日増しに加速する一方です。

別に明日死ぬということではありませんが、今まであまり意識してなかった「死」を意識して生きる時期にきました。

人間は平等と言われていますが、寿命は平等ではありません。不慮の事故であればいつ、なんどきいつ死が訪れてもおかしくありません。

急病、大病で突然倒れてそのまま帰らぬ人になることだってあります。

そしてその率は今後ますます増えて行くのです。平均寿命がいくつであろうとそれは統計学的なことに過ぎず、自分自身の寿命とはなんら関係のない話です。

そうなるとこう考えます。とりあえず今は健康だから今日明日死ぬ事はないだろう、しかし5年後10年後はどうだろうか、と。

乗っていた飛行機が落ちたり、運転していたクルマの事故で死ぬこともあるでしょう。内蔵系の疾患、ガンになることだってあるでしょう。世界をかえたスティーブ・ジョブスも突然のガンに倒れました。身体、肉体の性能、寿命は不平等なものなのです。

その前提において、すごいんです、老化が。今年きたのは老眼です。もうこの進行はもはや老化がせめてやってきた、侵攻といってもいいほど。まず手前が見えません。書類のサインがしにくいです。ミニ四駆のギアが、ネジが見えません。

さらに問題なのは遠くも見えないのです。

道を走っていても案内看板や標識、信号の矢印表示が分からないのです。とはいえ、それでも0.7はあるようですが、1.5から比べてひどい落ちようです。

この現実を前に、腹をくくってオッサンとして、死までのカウントダウンをしながら生きていく必要があるのだと考えました。

問題はいつ死ぬか、死期が正確に分からない点です。もしかしたら90歳まで生きているかもしれません。

しかしながらクルマを運転する、ドライバーとしてはどうでしょう。

視力、運動神経、筋力、体力。総合するとスポーツドライビングは60歳までがせいぜいであろうと実感してきます。衰えがこれから加速するとスポーツカーを堪能できるのは今しかない、という結論に達します。

「あとでいいかな」

若いころは先伸ばしにできますが、オッサンはもうあとがないんです。そうであれば、今、この時期に悔いない人生設計をするのは自然の流れです。

死の淵のベッドの上で、

「ああ、あの時こうしていればなあ」

と考えるのはイヤなのです。そんな気持ちで死にたくないです。

「ああ、あの時こうしたから楽しかったなあ、オレの人生」

と人生を振り返り、ニヤニヤしながら目を閉じたいのです。

そしてそのニヤニヤした死に顔を葬式でみた人たちが、

「この人はほんと、楽しそうだったなあ」

と思ってくれればそれが私の幸せなのです。

いつ死ぬか分かりませんが、いつも死ぬ事を想定して生きていくしかないのです。死は想定外ではありません、死期が分からないだけで、必ず死は訪れます。その点で死は万人に平等です。

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