アラフォー以上ですか? なら映画「コクリコ坂から」をオススメします(1)

上映は10月21日まで。映画「コクリコ坂から」をみる最後のチャンスです。

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コクリコ坂からビジュアルガイド~横浜恋物語~
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▼公式サイト⇒コクリコ坂から

ずいぶん前になりましたが、ジブリ最新作「コクリコ坂」をみてきました。今回はあの宮崎吾朗監督の2作目となる作品。1作目「ゲド戦記」が賛否両論、喧々諤々というか非難囂々の問題作だっただけにその出来が心配されたのですが、まったく問題なし、むしろとても良作といってもいいのではないでしょうか。

まず何がいいってこれが昭和30年代の横浜が舞台ということ。綺麗な海とまだ開発の進んでいない野山の風景をジブリの安定感ある美術で美しく描かれています。もうこれだけで見に行っていいんではないかと思うほど。

その昭和30年代の風景はというと、まさに古き良き昭和時代。ALWAYS 三丁目の夕日と同じような郷愁誘う雰囲気を醸していますが、ここですでにジブリマジックが。

実は昭和30年代といいながら、ここで描かれている世界は空想の世界。まあフィクションなので当然なのですが、フィクションというよりもファンタジーの手法に近いんです。ひとつひとつのパーツ自体は過去に実在したもの。食卓の様子を事細かに描写していますが、冷蔵庫の代わりとなる床下収納庫、炊飯器がわりのかまど、そして天ぷらをあげるのにはガスコンロを使用しています。

どれもひとつひとつは昭和の過渡期を表すそれぞれのアイコンなのですが、実は微妙にその登場時期は異なり、このような組合わせは果たして実在したか? というのは謎なのです。

というのも家庭内で「揚げ物」をするという歴史は非常に浅く、油の問題から換気扇が普及するまで行われなかったことが換気扇の歴史からも明らかです。

換気の第2世代 | Panasonic

日本では大正時代から映画館や病院など工業用途を中心として「排気扇」と呼ばれる商品がありました。パナソニックは、1958年(昭和33年)、公団住宅用に開発した「排気扇」を「換気扇」として発売しました。当時の「換気扇」の値段は8,000円前後。大卒の初任給が8,000円~1万円という時代でしたから、まさにゼイタク品でした。

この点は吾朗監督も認識しており、それもひっくるめて「昭和ノスタルジー」または「昭和ファンタジー」と呼ぶに相応しい描写といっていいでしょう。

宮崎駿監督ならその時代を生きていますが、吾朗監督は私と同じ昭和42年生まれ。まだ生まれていないので、肌感覚としてその時代の空気をもっていません。ましてや横浜の小高い丘にある、ハイソサイエティの生活というのは経験したこともないハズです。

見たこともないものを「もっともらしく」描くのがクリエイターの腕の見せ所。ゲド戦記ではヨーロッパ、しかも存在しないファンタジーの世界を日本人が描くのはそれはとてもハードルの高いこと。ハイジにしても、魔女の宅急便にしても見事だったのは「日本人が見聞きしたヨーロッパ的風習、慣習」をうまく絵で表現することで「リアリティ」を持たせたことでした。本当のヨーロッパ人からみると「なんじゃこりゃ」という部分も多々あったに違いありませんし、それはジブリも認めるところです。

それでも素晴らしい作品になったのは、この「リアル」とは異なる「リアリティ」でファンタジーを描ききっているところ。

「コクリコ坂から」が吾朗監督にとってラッキーだったのは、たとえ体験したことがない古き良き昭和時代だったとしても、それぞれのパーツは見聞きしたことがあり、それを合わせることで「リアリティ」を持たせることができたこと。この点であの舞台はとても「リアル」で、実在したんじゃないかと思わせるほど。

その最たる例が「カルチェラタン」。回廊と吹き抜けのある、まるでこれは「湯屋」じゃないかと、吾朗監督自身が腰を抜かした「カルチェラタン」は宮崎駿氏のイメージボードによるもの。逆にこの人以外に見たことのない「カルチェラタン」を描ける人はいないと、うまく巨匠を使うしたたかさも吾朗監督に備わったと感じました。

したたかさ、といえばそもそもこの「コクリコ坂から」を企画にあげたのもとてもうまく、自身が中学時代に宮崎駿、鈴木敏夫プロデューサー、押井守監督らが集まって合宿したときに回し読みした少女漫画で誰もがいいね、といったその「コクリコ坂から」を持ってきたことです。

下手な企画では宮崎駿氏に何言われるか分かったもんじゃないから、すでに「いいね」といったものを持ってきたという「親父に怒られない方法」を実践したところが、まさに親子関係を表しています。

「カルチェラタン」のデザインは架空のものとしても、その中で描かれる学生生活はとてもリアル。1960年代の安保闘争から今もまだ残っている反体制派の巣窟的イメージです。私のリアル体験でいえば、東大駒場寮みたいな印象。

東大駒場寮というのは、日本最高学府、東京大学駒場キャンパスにかつてあった寮で、学生による自治が行われ、学生運動・社会運動の拠点となっていた場所。

東京大学駒場寮 - Wikipedia

建物は三棟(中寮・北寮・明寮)、鉄筋コンクリート三階建て。関東大震災後の建設であり、堅固かつ重厚。

部屋の広さは24畳であり、机と畳ベッドが備え付けられていた。天井は約4m。建設直後は「ホテルより豪華」と言われたが、後年は窓ガラスや床板など内装の損傷が著しかった。大学設備なのだが補修は稀だった。

戦前は原則として全学生が寮生であった。戦後は学生数も増え、寮自治会が入寮選考を行った。

寮生活は共同生活が必須要件とされ、2~6人が同じ部屋で生活を共にした。多くの部屋はサークル部屋を兼ね、寮自治の最小ユニットとして機能した。

寮費が月数千円と安価であった。家庭の収入や自宅の位置を考慮して、寮生自身(寮自治会)が入寮審査を行った。

自治寮とは、新入寮生選考や退寮命令を含む大幅な管理・運営を寮生自身が行い、大学側も自治権を認める学生寮のことである。寮生のみからなる一種の三権分立(寮委員会・寮生大会・懲罰委員会)を備えていた。執行部が政治・宗教セクトに乗っ取られる危険と隣り合わせであるため、慎重に直接民主主義が実践されて長年機能した。

私が学生時代(1990年前後)、すでに学生運動は下火になっていて特にうちの大学は絶滅(というかもとからいなかった?)にも関わらず、東大にはまだまだ鼻息荒い運動家たちが学生として入寮していた模様。あるとき駒場寮に東大生の友人を訪ねていって、コミュニケーションルームで話していると隣から、

こんななまぬるい社会ではいかん、革命を起こそうではないか!

とマジで革命を起こすための熱い議論を交わしているんですよ。その隣で友人と、

パトレイバーのOVAはすごいぜ、押井守はやっぱ最高だろ!

とアニメ談義をしていて、その落差に自ら脱力しました。とはいえその数年後にパトレイバーが革命をテーマにした映画がでることになったり、昨今のネットVS政治において反社会的で革命に近い存在であることに気づくわけですが。

そういえば駒場祭のステージでチャラい催しものをやっていたら、

こんなことやっている場合じゃない!日本の未来がダメになる!

と学生運動家が乱入、ステージ上の主催者に殴り掛かったら、逆に主催者にコテンパンにのされたということもありました。

で、この主催者と学生運動家はどちらも同じ高校の同級生だったので、大笑い。お互いに顔見知りだったにも関わらず、一方はチャラい方向へ、一方は駒場寮に入ったばかりにすっかり染まってしまって違う道を歩んでいたというのが、とても印象的でした。

そんな学生が自治権を持っていた東大駒場寮ですが、カルチェラタン同様取り壊しに対して大きな反対運動が巻き起こります。

1991年10月 教養学部評議会が駒場寮廃寮を突然決定。一般には旧三鷹寮に新たに三鷹国際学生宿舎を建設することが決定したことに伴うものとされている。

1993年6月 寮食堂で集団食中毒が発生し営業停止処分を受ける。寮食堂を運営する東大生協は、施設の老朽化・採算の悪化などを理由に営業再開を断念し、翌年正式に廃止された。

1995年4月 大学側による新入生の入寮者募集停止。学生側はこれを認めず、新入寮生募集を継続。

1996年4月 大学側による「廃寮」宣告。
これ以降大学と、大学の言う「違法に占拠する学生」との対立が激化。大学による電力供給停止や、数度にわたる警備員大量動員による寮生追い出し・解体工事強行などが行われる。

1997年2月 東京大学(国)が寮内に残っている学生と寮自治会を相手取り、明け渡しを求める仮処分を東京地裁に申請。大学は廃寮問題を法廷に持ち出す。

2000年3月28日 大学(国)側の請求を認め、寮生らに明け渡しを命じる地裁判決。

2001年8月22日 約570名の警備員と教職員による学生立ち退き強制執行により、駒場寮は67年の幕を閉じる。この日は台風で大荒れだった。

強制執行後、建物は解体される。立ち退かされた寮生は明寮跡地の空地で仮設テントでの生活を余儀なくされた。

カルチェラタンと異なり、長い闘争の結果取り壊し。2001年8月22日の強制執行では、これ本当に21世紀?といった昭和的風景が展開されていたのが印象的でした。

同世代の吾朗監督も、こういった学生運動の残り香を学生時代にかいでいたに違いありません。

ああ、面白い昭和時代ですね。

(つづく)


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