00(ダブルオー)劇場版をみてきました(注意:ネタばれあり!) ([の] のまのしわざ)
ガンダム00映画版についてさらに考えを進めてみました。00(ダブルオー)のテーマは実は非常にシンプルな気がします。
イノベイターという、新人類。脳量子波を使うことにより、言葉ではなく思念をかわすことでコミュニケーションが可能となりました。00劇場版では言葉の通じない異星人との交流にも使われています。
ここで大事なのは、言葉・言語です。
民族は言語を持ち、言語は文化を作ります。言語は文字により伝えられ、時間的・距離的なものを超越しはじめます。
民族間紛争の場合、歴史が証明しているように文字をもたない部族が文字をもつ部族に滅ぼされています。
逆にいえば、文字が文化を作り、民族を形作るともいえます。その例が日本と日本人。日本語を話、日本列島で米を食べてるのが日本人です。
紛争の単位が国家間か、民族間か。ミスコミュニケーションの舞台裏には必ずや言語であり文化の違いがあります。
それを一気にとっぱらってしまうのが思念の直接交流。つまり言語をなくすことで誤解のないコミュニケーションをとろうというのが00(ダブルオー)のイオリア計画だったのではないかと。
ただ人間の進化過程で言語が生まれ、文字ができ、文化ができたことを考えると思念の直接交流は人間の進化の形ではなく、原始ではないかと。言葉というものを作り出し駆使することで脳味噌が活性化していったという気がします。
ガンダム(初代)ではニュータイプという概念を導入し、言葉だけではなく思念で通じあうことができないか、という仮説を提案しています。
一方でその後イデオンで「イデ」という自我でありエゴのぶつかりあいで滅びゆく2つの知的生命体を富野監督は描いています。そのイデに一番作用するのは生まれたて、純粋無垢な赤ちゃんでした。
つまり富野監督は一旦はニュータイプという概念で人間同士の相互理解を一旦は試してみたものの、イデで突き詰めていくとそれは破滅の道であるというところまでたどりついてしまったんでしょうね。
その点からも、一見似ているようで、というかガンダムという名前を冠していますけどガンダムと00(ダブルオー)はやっぱり違うな、と思いました。
日本人に生まれたからには、日本語と日本文化を大切にしていきたいものです。ビバお米。